2013年 12月 04日
細石神社(3)コノハナサクヤ姫はこの地で出産した?
細石神社(3)
コノハナサクヤ姫はこの地で出産した?
「ねえ、参道の脇から入った所に豊玉姫の岩があったと思うの。寄っていい?」
私はマーサに尋ねました。初めて訪れた時に、田と原野があって、
しばらくそこで石を見て過ごしたことを思い出したのです。
確か、豊玉姫の岩だった。
でも、行ってみると、人家が建ち並んで、様子がすっかり変わっていました。
「記憶違いかな。豊玉姫が髪を櫛けずったという大きな岩があったの。
ここでないなら、志登神社かな…。志登神社って支石墓があったよね」
「そうよ。支石墓があったなら志登神社だし、そっちが豊玉姫のメッカ」
「そうか…」
そう言われて思い出すと、この細石神社近くの岩は小さかったか…。
遠い記憶は夢と同じように、混乱してつながっていました。
(豊玉姫の岩を知ってる人、教えてくださいね)
ブログを書くために、奥村玉蘭の『筑前名所図会』見ていると、こんなのがありました。(るな訳)
八大龍王
三雲村の南に森がある。その中にある石を崇めている。一説に、彦火々出見尊がここでお生まれになったという験(しるし)の石だともいう。木花開耶姫の御社もこの辺りにあるのでそうもいえるだろう。
ネットを見ると、「その石は神社の東200mの所にあったが、それを境内に遷した」と書かれていました。
あ、あれか!
私はその境内の石を何故か写していませんでした。
いつもはどんな石も気を付けて撮っておくのに。
(また行けってことか…)
伝承の言う八代龍王の石が彦火々出見尊の出生地を示す石なら、
コノハナサクヤ姫の、火中出産の現場はそこだということになります。
私がかつて見たのは、その石だったのでしょうか。
「神社の東200m」という距離はちょうど参道の長さと同じです。
何故か、参道はそこでぷっつりと途絶えているのです。
そこに立った時、どうして参道が途切れているのか不思議に思いました。
人々はいったいどこから参拝したのだろうか。
多分、圃場整備されて、参道は消えたのだろうと結論付けました。
伝承ではこの見える範囲のどこかに石があったということになります。
彦火々出見尊の出生地という、類稀(たぐいまれ)な伝承地が消えたとなると、
糸島市は貴重な歴史遺産を失ったことになります。
これまで一緒に逍遥して下さった皆さんにはお分かりだと思いますが、
筑紫の伝承には、オリジナルが多いです。
「伝承だから」と一言で片付けてはならないほど情報に満ちていました。
一か所の伝承地も線や面で捉えると、遥か古代の生活が浮き上がってくるのが筑紫なのです。
もし、伝承が嘘っぱちで、ここでコノハナサクヤ姫が出産しなかったとしても、
そういう信仰を持った氏族の文化圏だったということは事実です。
『不思議空間「遠野」』さんが指摘されたように、
コノハナサクヤ姫が産屋を土で塗りこめて出産した「火」の三皇子は
筑紫でも東北でも同様に製鉄や鍛冶の炎を暗示しています。
ここにはそんな技術集団がいて、しかも「水銀朱」をこよなく愛していました。
水銀朱を精密に測る文明が弥生時代の早い時期(紀元前400年頃)にあったのは、
亀井遺跡(大阪府)で出土した分銅が証明しています。
これらはきっちりと二倍の重さになるように削られていました。
杵に朱が付いていた事から、朱を測ったと推測されています。
伊都国の南の鍋島本村南遺跡(佐賀市)では、この亀井遺跡よりも更に早い時期に
青銅器の生産をしています。
ましてや、大陸の文化を真っ先に取り入れるこの地にあって、製銅や製鉄を早期に始めたクニがあり、
伝承どおりに大山津見命神と妃がいて、
その姫神、磐長姫や木花開耶姫が住んでいたかもしれないと
ひとまず考えてみることは大切な事だと思いました。
伝承はさらに語ります。
「コノハナサクヤ姫が生んだ子はあの山に祀られているよ」と。
そう、ずっと見えている山。
高祖山。
たかすやま。
その宮に彦火々出見尊は祀られていました。
(つづく)
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今度は高祖山のレイラインを取り上げてみました。ヒットはしませんでしたが、日の出入りの画像も作ってみました。
すごくお暇なときに、チラッと見てみてください。
「地図でつなぐ聖地の旅 筑前国一宮「筥崎宮」(1)九州王朝 その7」で検索できると思います。
でも、あんまり説得力のあるお話ではないですので、もしも、すっごく気分転換が必要な時に、チラッと見てくださいね!