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ひもろぎ逍遥

吉武高木遺跡(2)ここは平群らしい・近東の月の民・ササン系・へぐり


吉武高木遺跡(2)
ここは平群らしい

近東の月の民・ササン系・へぐり

前回、ボロ地図を見直して見つけた「平群」の文字。
それは、この吉武高木遺跡の付近に鉛筆で書き込まれていました。
パズルが一つハマった。

かつて『古事記の神々』で葛城襲津彦(かつらぎそつひこ)を訳したのですが、
右も左も分からない頃でした。
また、真鍋大覚の本にこの遺跡付近の事が出ていたので、理解出来ぬまま書き写していました。

和名類聚抄に平群が書かれていて、現在の早良区羽根戸から金武付近、と推定されています。
そこで、作成した地図がこれです。
吉武高木遺跡がすっぽりと入ってしまいます。

吉武高木遺跡(2)ここは平群らしい・近東の月の民・ササン系・へぐり_c0222861_22345877.jpg


そこで改めて、葛城襲津彦を読み直してみました。
次の(8)は私になりに考察した部分です。
メモ代わりに書いておいたもので、同じものをコピぺします。

* * *

葛城襲津彦(8)
福岡県の葛城・平群・曽我

(今回は、福岡県の古代の地名の資料です。)

※簡単に朝鮮半島と往来していた
訳をしていて思ったのは、ソツビコたちに大変機動性がある事です。
軍はもちろん、弓月の君や王の妹なども日韓を簡単に往来しています。
ですから、この話の舞台は、福岡市の早良区や西区を中心とした話ではないかと
思うようになりました。
当時の朝鮮半島への航路は唐津経由か志賀島経由でした。

『和名類聚抄』によると、福岡市西部を中心に
平群や曾我、額田、田部などがあった事が書いてあります。
大和地方と似た構成です。
ですから、渡来人たちは福岡市にまず、拠点を置いて、それから大和地方に移動したと
考えるのがナチュラルです。そうすると、どちらにも平群などがある理由が分かります。


※『和名類聚抄』に早良郡に平群や曽我があった事が書いてあった。
「早良郡」ウィキペディアより (早良郡で検索すると出て来ます。)
『和名類聚抄』によれば、毘伊(ひい、現在の城南区樋井川付近)、能解(のけ、現在の福岡市早良区野芥付近)、額田(ぬかだ、現在の西区野方付近)、早良(さわら、現在の城南区鳥飼付近)、平群(へぐり、現在の早良区羽根戸から金武付近)、田部(たべ、現在の早良区小田部付近)、曽我の7郷があったとされる。


※真鍋大覚氏による伝承

『儺の国の星・拾遺』
p244
筑紫で孝元帝(前214~158)から清寧帝(480~484)の間に玄界灘の交易を掌握していた平群は近東系の出であって、月氏のササンの子孫であったと思われる。筑前早良の由来は「ささのあまのはら」で、平群氏が百済人をここに租界させた。


p245
昔、祖先に「かひ」と「とひ」の二つの氏族があった。「かひ」とは夏至を元日とする氏族であり、「とひ」は冬至を元日とする氏族であった。かすかな口伝ではあるが、平群氏は望旦夏至に固執し、曾我氏は朔旦冬至に改革したと説かれる。

皇極帝(645)年はまさに暦法の採否をめぐって中大江皇子の激烈な論争と対決が背景にあったことを心得なければならない。
「そが」は素娥と書き、月の東洋的異称であった。これに対して、「へぐり」は平群と書き、月の西洋的異称であった。

和名抄には筑前国早良郡の条に、まだ平群、蘇我の郷名が記録されているが、今はない。
所は脇山であって、改名の由来は文書にはない。月を女人に事寄せる泰西の民族の伝統に「わき」なる異邦人の租界の古称を重ねて作り上げたものと古老は語っていた。
賀茂の氏族は日本の開拓者であった。刀剣の類を作り上げるよりも、むしろ百姓の鋤鍬の方を主としていた。北方系の胡人であった。


『儺の国の星』
p155 
早良戸栗(さわらへぐり)は、かつての平群氏の故郷であった


p196
大和の笠置の山々の名は、筑紫の葛城から神功皇后(201~269)の御宇に遷したものと伝えられる。葛城の峰は香椎宮から太宰府の東の空に連なる。

葛城氏が竈門山系と水縄山系を領有して南方貿易を独占していたのに対し、平群氏は背振山系と志摩山系を治めて北方貿易を掌握していました。せふりの語源は「へぐり」に在ったと語られますが、日繰(ひぐり)すなわち天文暦法の家系を示す古語であります。


香椎宮から太宰府の東の峰とは犬鳴連峰の事でしょうか。
水縄=耳納
なお、「賀茂」が野芥の北にあります。

大和にこれと重なる構成の地名があるのは教科書で学びます。
葛城襲津彦は筑紫の出身で、大和に移住したものと考えると、うまくいきそうです。
それに前後して、多くの氏族の移住もあったのでしょう。
父親の「竹内(つくしうち)の宿禰」は「筑紫の内の宿禰」と考えました。

※日本書紀中の的(いくは)臣について
ソツビコの子孫が的(いくは)臣です。阿藝那臣も子孫です。
藝の字は曇の写し間違いだと思いました。安曇那臣が正しいと思います。
的臣は福岡の筑後川流域・浮羽(うきは)で、阿曇那臣は福岡市です。

* * *
以上が、『古事記の神々』に記載した内容です。

う~ん。
今、読み直すと、
弓月の民が来たのと、百済の民が租界したのと、私はゴッチャにしてる?
読解するには、まだ知識が足りないな。
誰か教えてください。

真鍋の伝える平群氏についてまとめてみると、
  「月」を意味する「フェンガル」から変化したのが「へぐり」で、
  近東の月氏のササン系の子孫。
  平群氏は筑前国早良平群郷を故郷とし、百済人を疎開させた。
  平群氏は「かひ」族で、夏至を元日として、天文暦法の家系だった。
  平群氏は背振山系と志摩山系を治めて北方貿易を掌握していた。

となります。
ふと思い出したのですが、
糸島の宇美八幡宮の宮司家武内家平群のヅクの子孫だと言われました。
竹内宿禰の四男の家系だということです。
聞いたときには平群と糸島の繋がりが唐突に思われたのですが、
真鍋の話からは、平群がここを掌握していたということなので、辻妻があうことになります。

この平群氏と天孫族の関係は紀元前に深いものとなっていた?
しかも、平群のツクは竹内宿禰の子孫。
弓月の君って、秦氏じゃなかったっけ。
あ、織幡神社(宗像市)の近くの波津で宿禰は幡を作らせた。

複雑すぎ!

だれかすっきりと整理してくださいな!


吉武高木遺跡(2)ここは平群らしい・近東の月の民・ササン系・へぐり_c0222861_2240150.jpg

吉武高木遺跡 日向峠の方向を見る


(つづく)
このはなさくや姫の里 14 ( 下の ♯ から入るとずらりと見れます)






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Commented by たっつん at 2013-12-31 07:04 x
今年一年お世話になりました。
また、来年もよろしくお願い申し上げます。

綾杉さんとご家族様のご健康をお祈り申し上げます。
良いお年をお迎えください。
Commented by はなこ at 2013-12-31 12:25 x
よく頭に入りますねぇ、尊敬です。私なんか3分考えたら電池切れ、3分で忘れて、再起動しなくちゃです。
年が明けたらお尋ねしたいことがあります。
この頃新宮の熊野詣でしてるんですよ、G-Mapで。
良いお年を。
Commented by lunabura at 2014-01-01 11:30
たっつんさん、新年おめでとうございます。
今年も、沢山の狛犬さん、会えるのを楽しみにしています。 (^-^)
Commented by lunabura at 2014-01-01 11:32
はなこさん、あけましておめでとうございます。
グーグルで熊野詣でとは、すてきですね。
私も、現実に行こうとして、断念しました。
まだまだ、チャンスあるはず。

今年も、コメントお待ちしています (^-^)
Commented by UR at 2020-10-02 23:25 x
平群は九州に。
これで日本の王朝変遷図が見えてきた。
平群→大伴→物部→蘇我→藤原
これは皆、倭国及び日本国の大王一族の氏の変遷だと思います。
6世紀の日本の混乱が見えてきます。中国の史書から抜けてる期間。
平群→大伴→物部→蘇我と短い間に王朝交代があったのだろうと。
平群王朝までは中国の皇帝の臣下であったのだろうと。
大伴金村が中国の王朝の皇子を国内で立て継体天皇とし
新たな支配体制を築こうとしたと。
蘇我王朝になりやっと国内が落ち着いて中国に使者を送れたのだろうと。
蘇我王朝までが倭国、藤原王朝から日本国。
どうも倭国の東にあったという日本国。
どうも奥州が日ノ本中心だったらしい。
もとは大和にいたらしいが東北に逃げたとか。
奥州藤原氏って実はなにかかが隠されてる気もしてくる。
白村江の戦で唐に占領された倭国。
奥州の日本国にとっては千載一隅のチャンスだったのだろう。
平群から見えてきた妄想ですね。
Commented by きよし at 2021-04-13 19:37 x
なにかのHPに武内宿禰の一族が住んだ所は内という地名で鹿児島にも内という地名がありますと書かれていました。そのHPでは武は何かの称号と書かれていました(五十 猛の系統?)。そして早良区の室見川の上流に内野という地名があります◎m(__)m
by lunabura | 2013-12-30 22:42 | <遺跡・史跡> | Comments(6)

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