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ひもろぎ逍遥

ヨド姫(14)こくな

ヨド姫(14)
こくな

『儺の国の星拾遺』を読んでいますが、
前回(13)の「ヒアデス星団の七女神」の続きは「こくな」の話が出てきました。
書き写しましょう。(一部変更)

 百済谷那(こくな)の葡萄状結晶性褐鉄鉱の特産地である。倭人はこれを虎来土(こくな)と書いた。その精錬の名人を国造(こくぞう)と呼んだ。

いつの頃か漢字を二つに絞ることになって、略して寅気と書き、これをどう読み直したものか、陰毛(いんのけ)あるいは犬吠(いんなき)などと名人の子孫の故郷の地名に当てたのは中世であった。

聖書に基督(キリスト)誕生の時に牧羊犬が聖母(マリヤ)の出産を気遣う描写があるが、タタラの出銑の際には狗犬も関背をあげるかのごとく吠えたてたと説かれている。

タタラを音訳して猛虎に例える。ヒヤデスが深夜、天頂に達する頃からタタラ造りがはじまる。牡牛座タウルスの名も又「とろく」あるいは「とらき」に事寄せて考えた祖先があったかもしれない。虎来(とらき)星の名がそれである。この頃になると田に稾(わら)が積み上げられる。稲置(いなぎ)星の名もあった。


「百済の谷那」と言えば、『日本書紀』の神功皇后紀に出ています。
ネットで検索したら、るなの『古事記の神々』が出てきました (@_@;)

神功摂政52年の秋、9月10日にクテイたちは千熊長彦に従って来朝しました。その時、七支刀一口、七子(ななつこ)の鏡一面、および種々の宝を献上しました。そして、
「臣下である我が国の西に川があり、水源は谷那(こくな)の鉄山から出ています。
大変遠いところで、七日では着きません。そこに行き、その山の鉄を採って、永遠に聖朝に献上します。」


百済が七支刀を献上したのは有名ですが、その時、谷那の鉄山も献上していたんですね。

「谷那」を「虎来土」と書いてどちらも「こくな」と読むのですが、
他にも「虎」の字を当てた表現があるのは、どうやら倭人は牡牛座の「タウルス」の発音を記憶していた、
と真鍋は暗示しています。

(12)回に出てきた「火炊星(ひやきほし)」の「ヒヤキ」も「ヒヤデス」の音写かと言っていましたね。

海人族たちは中東と倭国の間を船で往来するので、
古い日本語の中には、異国の言葉がダイレクトに入って来ているようです。

そして、「こくな」とは葡萄状結晶性褐鉄鉱ということなので、
スズ鉄が葡萄のように丸く結晶化したものということになります。

葦の根に近い所で結晶化していくので、鈴のように中が空洞になっていき、
縄文人がそれを容器にしたものも出土しています。

次の写真は「つれづれなるままに」のジュンジュンさんが気付いた鈴。

ヨド姫(14)こくな_c0222861_23561355.jpg


青森県岩木山北麓 巖鬼山神社

これこそ、葡萄状の結晶。
スズ鉄が鈴なりになるよう、祈りを込めたものかも知れませんね。





タタラの達人の故郷を「いんなき」と中世に呼ぶようになったようですが、
「犬鳴」こそ、製鉄を営んだ場所だということは、当ブログでも何度も出てきました。

「こくな」は前々回の所に出てきました。次に再掲します。

徳勒星(とくろくの星)
牡牛座 Taurus θ(71)
(略)
鉱脈が地熱で風化分解して脆弱(ぜいじゃく)な軟泥粉末になったものを、
祖先は「 あまつまら 」「くくぬち」「 こくな 」 「ふなつち」「たらを」「まつを」「まつら」などといった。
坩堝(るつぼ)に炭塵と共に混合して点火すると容易に金属を熔かし出すことができる。

火口(ほぐち)からV字型の壁(そこ)を伝わってしたたり落ちる高熱の合金を
受ける皿が「とろく」であり、これが冷却して固まった塊を「をきたま」と言った。
置給星(おきたまの星)の名も出羽の地で昔はきかされた。
ヒヤデスの音写かと考えられるほどの名に火炊星(ひやき星)もあった。


「くくぬち」「こくな」「ふなつち」どれもが風化した鉱物でした。
「あまつまら」(天津麻羅)は、古事記に登場する鍛冶の神です。
これもまた鉱物と同義に使われたということですね。


『古事記の神々』から七支刀と谷那が出てくる所を掲載しておきます。
真鍋大覚が七支刀と谷那を続けて書いたのは、『日本書紀』が下地にあったんですね。
記憶力すごい。

神功皇后(14)百済は七支刀と谷那の鉄を献上する
 
50年の春2月に荒田別たちは帰国しました。

夏5月に、千熊長彦とクテイたちも百済から戻って来ました。皇太后は喜びながらも、クテイに、
「海の西のもろもろの韓をすでにそなたの国に与えた。それなのに、またこうして何度もやってくるのはどうしてなのか。」と尋ねました。

クテイたちは、
「天朝の恵みは、遠くて卑しい我が国にまで及んでおります。我が王も喜んで踊り出さんばかりです。そこで真心を示すためにこうして再び参りました。万世に渡るまで必ずお仕えする心を示すためです。」
と奏上しました。

皇太后は
「嬉しいことを言ってくれる。それは私の望むところだ。」
と言って多沙城(たさのさし)を追加して与えて、通い路の駅舎(うまや)としました。

51年春3月に、百済王はまたクテイを派遣して朝貢しました。
皇太后は皇太子と武内宿禰に、
「親しくする百済国は、人ではなく天が与えたような国ですね。貢いで来る物は珍しいものばかかりで、見たこともないものばかり。時を置かず常に朝貢して来て、大変喜ばしいことです。(私が死んだあとも)変わらず、厚く恩恵を与えるように。」
と言いました。

その年、帰国するクテイを千熊長彦に送らせました。百済に着くと皇太后の言葉を伝えました。
「われは神の示しに従って初めてここに道を開いた。海の西を平定して百済に与えた。今また友好の縁をしっかりと結び、永遠に慈しむものである。」

百済の王の父子は並んで額を地につけ、
「貴国の恩恵は天地より重いものです。いついかなる時にも決して忘れません。聖王は天上にあって、月や太陽のように輝いておられます。私めは下に侍って、忠誠の心は山のように不動です。永遠に西蕃となって、二心(ふたごころ)は持ちません。」と言いました。

52年の秋、9月10日にクテイたちは千熊長彦に従って来朝しました。その時、七支刀一口、七子(ななつこ)の鏡一面、および種々の宝を献上しました。そして、
「臣下である我が国の西に川があり、水源は谷那(こくな)の鉄山から出ています。

大変遠いところで、七日では着きません。そこに行き、その山の鉄を採って、永遠に聖朝に献上します。」
と言いました。

そうして、肖古王は孫のトムル王に、
「今わたしが使者を通わせている海の東の貴い国は天がひらいた国です。その国が天の恩を我が国にも与えて、海の西側を分けて与えてくれた。だから、この国の基盤は永遠に固いのです。

そなたも、この友好関係を大切にして、国中から集めたものを献上し続けてくれるなら、私は死んでも恨むことはない。」と言いました。これより後、毎年朝貢し続けました。







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by lunabura | 2014-03-05 23:59 | ヨド姫の宮めぐり | Comments(0)

綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25

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