2014年 04月 17日
高良下宮社 物部胆咋の夫人
高良下宮社
物部胆咋の夫人
ここは高良下宮社。
心配していた屋根が修理されていましたよ(^o^)/
中央の社を見て「三階松が無くなっている!」と大騒ぎしたのですが、勘違い。
「あった!あった!」
三階松が掲げられているのは右手のお社、「幸神社」でした。

現在、幸神社の祭神は「孝元天皇」となっていますが、古くは「物部胆咋」だったらしい。
その辺り変遷の状況は、まだ未確認なんですが、
物部胆咋は当ブログにも何度も出てくる神功皇后の時代の人物です。
胆咋(いくひ)は仲哀天皇の崩御ののち、香椎宮で会議があった時の主要メンバー。
ガイドブックにもチラリと書いたけど、北九州では材木調達に神功皇后を案内した人。
現地には物部氏の稲荷があったので、胆咋は皇后に武器庫を見せて
軍備の状況を説明したのだろうと推測しています。
その胆咋が高良下宮社に祀られていたことから、新羅の役ののち、
久留米での支配権を掌握したのかな…と考えていたのですが、
『高良山雑記』には、何と、その夫人も出てきました!
①「幸大明神
物部胆咋の夫人を祀る(馬淵庸五郎談)。」(高良山雑記)
物部胆咋のみならず、その夫人が高良山麓に祀られていた!
古代の人は夫人を連れて移動するので、もしかしたら夫人は当地で亡くなったのかも。
年配だと思われる胆咋と夫人の終焉の地・高良山麓に
末裔の物部氏によって祀られたという可能性も出てきました。
さて、「高良山雑記」には「幸大明神=胆咋の夫人」が何処で祀られているのか、
書かれていないんですが、「幸神社」の「幸」に連想されて、
もしかしたら下宮社に祀られているのかなと考えたりしています。
それというのも、「物部胆咋の木像」が高良下宮社に移されているという
記録も複数あったからです。
②「物部胆咋連の木像
高良山鏡山神社御本体所に在った物部胆咋連の木像は、其後御井町下ノ丁高良下社の神殿に移る。」(高良山雑記)
なんと、物部胆咋に到っては木像が存在するのです!
もとの鎮座地は「鏡山神社」ですが、
哀しいことに高速道路の真下に当たってしまい、その存在は完全消滅しています。
あの日、高良下宮社から祇園山古墳に向かう途中、ガードの下で
「ここに鏡山神社があったんですよ」
と氏子さんが言われたことがどれ程重要な話だったのか…。
今、思い返すと、その石碑ぐらい遺されていてもよさそうだが…。
とも思われるのです。
失われた鏡山神社こそ物部氏の神社なんですね。
物部ファンなら、ここは絶対押さえるべき神社だと分かって来ました。
③「鏡山・宗崎両家の系統
鏡山大祝の家は物部氏、宗崎大宮司の家は神部氏。」(高良山雑記)
高速道路下に物部胆咋とその夫人を祀る聖地があったということは、
その周辺は物部氏の営みがあったということになります。
次は同じ内容で、別の所から抜き出したところ。
④「下宮
下宮の神体は物部胆咋連の木像であるが、もともと鏡山神社の御本大所に在ったと云う。
往年下社の境内整理中の出土品は六花弁の鏡一個、短刀一振、瓶一個、同社は白鳳二年の建立である。安政二年八月改築、大正年間村社に昇格。下社を祇園と云うのは、七月十四、十五日の夜渡に帰因する(馬渕庸五郎談)。」(高良山雑記)

これは高良大社縁起です。
麓に赤い鳥居があり、右に大祝(おおほうり)屋敷、そして下宮社となっています。
高良山縁起の巻物を見ると、仲哀天皇から始まっていました。
つまり、文献に書かれた高良山の歴史は物部胆咋とその夫人の時代から
始まるという意味でもあります。
神として祀られるのも、うなずけますね。

(下宮社説明板より)
そして、難問が、るなの前に立ちはだかりました。
高良下宮社
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地図で場所を確認しました。
下流は杵島あたりですね。
武内宿禰と大鷹・小鷹の攻防があった所ですよね。
古い話を探すのは大変だと思います。
唐津市や武雄市などの図書館に尋ねるのはいかがでしょうか。
最近は図書館は問合せに対する返答力を競い合っていると聞きます。
大正時代の本が在りましたが、載っているかは分かりません。








