2014年 04月 19日
武内を名乗る物部氏の不思議
武内を名乗る物部氏の不思議

(高良下宮社 幸神社)
今回はあまりにもマニアックな話なので、高良山好き以外はスルーしてくださいな。
さて、るなの前に立ちはだかった難問。
と、おおげさに書きましたが、頭を悩ませた一文とはこれです。
①高良社仕人
高良社草創以来の仕人は丹波氏(俗体大宮司法体坐主兼宮師職、武内宿禰嫡流)、物部氏(祝司、大祝、小祝職、武内宿禰乳母の子孫)、(略)
武内宿禰の乳母の子孫
高良山の始まりは宝物館の縁起では仲哀天皇の時代と書かれていました。
つまり、神功皇后の時代ですね。
高良社が祀られるようになってから、奉斎する氏族は丹波氏、物部氏などがいました。
(他にも大勢書かれているのですが、テーマがずれるので今回はパス)
前回出て来た鏡山大祝家は物部氏でしたが、①を見ると、
物部氏は「武内宿禰の乳母の子孫」と書いてあります。
武内宿禰に乳母がいた!?
想像もしていなかったので、びっくりしたのですが、落ち着いて考えると乳母がいて当然ですね。
竹内宿禰の母は山下影媛ですが、父は武雄心命(日本書紀説)か、
あるいは祖父の彦太忍信(古事記説)です。
山下影媛は佐賀から小郡にかけてその足跡が濃厚に伝えられている人ですが、
身分が高いので乳母をつけたのでしょう。
その乳母が物部氏だということは、つまり、物部夫人の中に、山下影媛と同時期に
出産した人がいたので、竹内宿禰を預かってお乳を含ませたということになります。
高良山に奉仕する鏡山家はその乳母の子孫だということです。
武内宿禰の嫡流
また、①には、丹波氏は「武内宿禰の嫡流」とも書かれています。
嫡流って、長男の子ってことですよね。 (@_@
竹内宿禰の長男といえば「波多八代宿禰」(日本書紀)か、
はたまた「斯礼賀志」(九躰皇子)か、さんざん悩んだばかりです。
ここに、また丹波氏が名乗りを挙げた…。
いったいどうなっているのか、大きな謎にぶち当たって、ずっと考えていたんです。
『高良山雑記』には、こんな文も書かれています。
②大祝・大宮司・坐主其他諸家
高良山大祝家は武内宿禰三十二代孫・美濃理麿保続の第一子・武良麿保義を祖とする。文徳天皇斉衡三年、大祝物部大継をして始めて笏を執らしむ。
大宮司家は美濃理麿保続の第四子・武賀麿保通を祖とする。
坐主家は武良麿の弟・武見麿が出家して隆慶と号して坐主と称する。
妻帯し、子孫相続き麟圭に至り数年断絶、麟圭の子・尊能が坐主となり、清僧にして坐主の血統が絶えた。
大祝家は武内宿禰の三十二代目の美濃理麿保続の第一子から始まったというのです。
その続きには分かりやすいように、次のように図示されていました。
③武内宿禰三十二代孫
美濃理麿保続―― 武良麿保義・・・・・・大祝家の祖
- 武勢麿保続・・・・・・神代家の祖
- 武見麿保依(隆慶)・・坐主家の祖
- 武賀麿保通・・・・・大宮司家の祖
これは武内宿禰の三十二代目に四兄弟が生まれて、
それぞれが神道や仏教などの祖となったという事です。
時代がいつか、知りたくて思い出したのは隆慶の存在。
どこかで、書いていたぞ…。
そう、隆慶(りょうきょう)とは高良山で仏教を始めた人なのですね。
(ネットで検索すると当ブログが出てきた(+_+)。やっぱり書いていた…)
で、ですよ。
な、なんと『高良山雑記』には武内宿禰の系図がずらりと書かれていたのです。
(ホント驚いたけど、ここは隆慶だけに注目)
そこに、隆慶が出家した時代が書かれていました。
④武内家系
孝成、孝知、孝基、孝鎮、孝豊、信件、成信、仲基、孝景、元隆、良基、孝英、行成、行政、良孝、信基、景良、成隆、孝義(天武天皇朱雀年中に大宮司孝義二男基隆蓬髪し坐主隆慶となる、社僧之より初まる)信英、(略)※32代は孝貞
(もっと書かれていますが、途中で息切れ。)
ここには隆慶が出家した年は天武天皇朱雀年中とあります。
ネットで調べると、朱雀年間は684~685年のわずか二年間です。
で、天武天皇の時代に武内家の子供たちがそれぞれ役割分担して、
各職の祖となったということが分かりました。
で、ですね。
話が逸れるけど、「朱雀年間」って、通説の年号にないんですね (@_@。
「二中歴」(にちゅうれき)という九州年号のお世話になって特定できたんです。
他にもこの本には、白鳳とか、朱鳥とか年号が出てきて、やっぱり二中歴でないと解けない。
これまで、二中歴をスルーしてきたけど、いよいよ目の前にぶら下がりました。
幸い、古田学の諸兄が、いろいろと研究してくれているので、年代が分かったんです。
古代九州には教科書に書かれていない暦がある (+_+)
それはどうしようもない事実。
暦を持つということは一つの国として成立するのに肝要な事なのです。
古代中国ではそれがシビアだった。
高良山は独自の暦を持っていただろうというのが、るなの考えですが、
この「二中歴」が該当するのかなあ。
(この辺り、愛読者さんに解説頼もう…)
で、話を元に戻しましょう。上掲の②③④には謎やら発見やらがいろいろとあります。
1 隆慶の父の名が④では孝義となり、②③には保続となっている。
2 隆慶は③では三男、④では二男となっている。
3 ④に書かれた「武内家図」について。普通、家系とは初代から書くものなので、「孝成」とは竹内宿禰のことになるのだろうか?
4 美濃理麿保続、武良麿保義、などのように和風と中国風の二種の名をつけている。
5 保続の四兄弟にはみな「武」の字が付けられている。これは「武内」一族を繁栄させたものだろう。
一つ一つ検討すべきでしょうが、論文ではないので、次の感想に留めます。
鏡山大祝家は物部氏でありながら、竹内宿禰の子孫でもあることは間違いないでしょう。
それは次の文からも伺えます。
⑤本体所
大祝家の宅地内に武内宿禰の霊を斉き祭る所を本体所と云う、と高良玉垂神社々伝にあったという。
大祝家の屋敷では竹内宿禰の霊をも祀っていたのです。
つまり祖霊として祀っていたということになります。
さらに、時代が下がって、子孫の話が登場します。
鏡山保名が高良山を出奔するのですが、名を武内典膳と改めたというのです。
その資料を出しておきます。(スルーしてOKです)
⑥鏡山安芸守処罰 寛延二己巳十月六日、高良山鏡山安芸守神職御取上、此人高良山御血脉百廿五代断絶と申(同上=石原日記)。
延享寛延の頃は、神仏両派の軋轢極度の時で、御井寺の坐主と京都神道総裁吉田家に宗事した鏡山家とは、互に権勢を争ひたる結果、鏡山保名は延享六年(鏡山処罰の一年前)十月六日、高良山を出奔して京都に赴き、名を武内典膳と改め、右大臣二条宗基に仕へた、其子保高、後、母と共に、江洲星野勝右ヱ門に養われ、寛政七年本多家に仕へた(阿蘇宮司談)。
鏡山とは物部のことでした。その保名が改姓するのに、武内姓を選んだというのです。
好き勝手に姓を選べない時代、武内姓が名乗れたのは、
祖先が武内宿禰の乳母だったからということになります。
でも、変。
「乳母」なんだから、武内姓を名乗ることが出来るのは変。
「嫡流」とか、ますます変。
久々のるな探偵の推理コーナー
で、るな探偵は次のように推理したのでした。
「武内宿禰の乳母」という物部夫人の話に戻りますが、乳母のもう一つの役割を思い出したのです。
乳母とはその子が大きくなったら、夫婦のことも教える立場にあるんですね。
ということは、物部夫人は竹内宿禰の子を宿した。
そう考えれば、生まれた子は物部氏であり、かつ武内家の血族でもある訳で、
隆慶たちが、その末裔と自称するのは理屈に合ってきます。
竹内宿禰が妻を娶る前の話ですから、歴史の表に出てこない「長男」が存在したということになります。
これなら鏡山保名が改名する時、武内姓を名乗ることは許されるでしょう。
武内家と物部氏が血縁関係を持って協調関係を持った。
それを知った時、竹内宿禰が、あれほど縦横無尽に古代日本を動けた点にも
合点がいったのです。
鏡山家=物部氏=武内家
そんな構図が高良山の麓にあったということになります。
(つづく)
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明治政府の編纂した大百科事典である『古事類苑』にはその例が山のように書かれているので、参考までに(ネットで「古事類苑>歳時部四>年號下>逸年號」で検索すれば見えます。ただ一番正確なのは『二中歴』のようです。
年号を建てうる権力は、その国の主権者ですから、九州年号が続いている間は九州王朝が倭国の主権者だったことになり、701年大宝建元をもって主権者は大和朝廷に変わった・・という考えです。








