2014年 05月 05日
江田船山古墳・ムリテら三人が眠る奥津城
江田船山古墳
ムリテら三人が眠る奥津城
ついに、熊本県和水町(なごみ)の江田船山古墳にやって来ました!
教科書に出てくるし、当ブログの百済の前方後円墳にも出て来て、
現地に立ってみたいとずっと思っていました。

円墳と思いきや、

前方後円墳でした。
手前のカーブの辺りは周溝で、とてもきれいな形をしています。
環境、スゴイ。
こんなに手入れされた環境の古墳、初めてです。

前方部から後円部を取ったのですが、入口が斜め!しかもくびれ部から入る。
この向きに、ちょいと驚いた。
そして、この鉄の扉を自由に開けることが出来るのです!!!(^o^)/

鉄の扉を開ければ家形石棺。
蛍光灯がいくつかあるので、竹原古墳のように怖くはなかったです。( ´艸`)
う~ん。デカイ。
横口式ですね。つまり追葬が出来ると言うこと。
調査では5世紀後半~6世紀前半の三人分の副葬品が出土した、となっています。
それにしても、石室はどうなってるんだろう。
部屋を見回すと、壁や天井は現代の加工なんです。
羨道も見当たらないし。
説明板にはその記述がないので、もしかしたら石室は無しかな?
石棺の上に直接土を重ねた?
この古墳は明治6年(1873)に夢のお告げで発掘されました。
未盗掘でした。
出土品は例の調子で地元にはありません。(´・ω・`)
ただ、現場に写真があり、レプリカが資料館にあるので、理解しやすいです。
この日は資料館に行く時間はありませんでした。
副葬品の写真はウィキぺディアなどに掲載されています。
副葬品の鉄剣に銀で象眼されていて、ムリテに与えたということが分かっています。(異説あり)

で、副葬品には金の素敵なイヤリングもさることながら、三環鈴が出ています♪
外側には埴輪でなく、石人が置かれていました。

これは横のの石人レプリカ公園。
で、何が知りたかったのかというと、この古墳の所在地、菊地川流域と百済の前方後円墳には縁があるので、現地を見たかったのです。
次の記事を自分でも読み直しました。
「百済の前方後円墳」
http://lunabura.exblog.jp/i189/
1 栄山江流域の前方後円墳の被葬者は副葬品から考えて「周防灘沿岸、佐賀平野東部、遠賀川流域、室見川流域、菊地川下流域などに出自をもつ複数の有力豪族と想定」される。このように、菊池川下流域からも百済に向かった武人がいたわけです。
「韓半島南部に倭人が造った前方後円墳」―古代九州との国際交流― 朴天秀(慶北大学考古人類学科教授)より
百済で見つかった前方後円墳群は倭人が造ったもので、
築造年代は5世紀後半から6世紀前半。
江田船山古墳は「5世紀後半、6世紀初頭、それに6世紀前半の3つの時期」(熊本HPより)。
ぴったり重なっています。
百済の被葬者はゴホウラ貝など倭国のものを持って埋葬され、
百済で手に入れた金銀の威身具は故郷に送る。
そんな推測がなされています。
その黄金の威身具に包まれて江田船山古墳に埋葬されたムリテは
「典曹人」という身分で、行政事務の役人と考えられています。
任那四県を百済に譲渡した事件、また継体天皇と磐井の戦いが起きた時代です。
ムリテは朝鮮半島の情勢、また筑紫君・磐井をおびやかすヲホド王(継体天皇)の状況を
どのような思いで見ていたのでしょうか。

右手に円墳。中央奥が江田船山古墳。
夏には祭もあるそうです。
市民に愛されてます。^^
江田船山古墳 熊本県和水町(なごみまち)
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