2014年 05月 18日
朝闇神社 高木の神…再びの悪夢か
朝闇神社
高木の神…再びの悪夢か
思いがけず長安寺の石碑で道草しましたが、道の最奥にある鳥居に向かうと、
注連縄がとても低くてくぐるのが遠慮されました。

神額は朝闇神社。

「闇」の字が選ばれているのは天皇の死を暗示しているのでしょうか。
説明板がありましたよ。
朝闇神社(ちょうあんじんじゃ)
福岡県朝倉町大字須川鐘突1269
祭神 高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)
別名を大行事社(だいぎょうじしゃ)ともいい、祭礼は毎年9月14日に行われる。
近くには「朝倉橘広庭宮」「天子の森」「長安寺廃寺跡」があり、これらと関係があるのではないかといわれており、「朝倉」の地名は、この神社からきたものではないかと考えられている。
また、この神社の境内に祀られた「毘沙門堂」は現在も残っている。

祭神はあの高皇産霊尊すなわち高木の神でした。

山里ではよく見られる氏神様的な神社の様子ですが、
ここに高皇産霊尊が祀られているというのはよくよくの事ではないでしょうか。
そう。
思い出すのは仲哀天皇の突然の崩御の事件です。
斉明天皇と全く同じように新羅と戦うために筑紫にやって来た仲哀天皇。
戦いの準備中に突然、崩御。
誰もが、このケースを思い出したに違いありません。
仲哀天皇の崩御に関しては複数の伝承が日本書紀にも書かれ、
ガイドブックでも整理しましたが、
伝承が一番厚かったのは御勢大霊石神社(小郡市)でした。
羽白熊鷲と戦うために川原(御勢大霊石神社)に布陣した仲哀帝は
前線を見まわって帰陣する途中に敵の矢に射られてしまいます。
それが原因で崩御するのですが、
神功皇后はそののち北の隼鷹神社で鷹を祀ります。
それは御勢大霊石神社に布陣するために天皇が天神地祇を祀ったとき、
鷹が飛来し、その後、北を目指して隼鷹神社の松の木に止まったからです。
皇后は鷹が不吉をもたらしたと考え、後に鷹を祀ったと考えています。
鷹はどこから飛んできたのか。
北を目指したなら、南から飛んできたのではないか。
そう考えて地図を見ると、真南には高樹神社があったのです。そこは高良山の麓。
高良山の地主神だった高皇産霊尊は高良の神に欺かれて結界を張られて
戻れなくなり、麓に鎮座するようになりました。
高良の神とは竹内宿禰ですから、仲哀帝が筑紫に来た時あるいはその直前の事件です。
高木の神が仲哀天皇に祟った。
そして、再び斉明天皇に祟った。
そう思わずにはいられませんでした。
地図を見ると、宮野神社~別所神社~朝闇神社が、ほぼ一直線上に乗って来ました。
東西のラインです。
当社に立つと真西が観測されるということになります。
どうやら祈りのラインがありそうな気配です。
都から見て朝闇神社は真東に鎮座しているのでしょうか。
まだ都の場所は特定できていません。
『福岡県神社誌』を調べたのですが、朝闇神社は載っていませんでした。
「朝倉」の語源かとも言われる重要な宮なのに、載っていないのは不思議です。
「アサクラ」とは「朝の石位」(あしたのいわくら)
すなわち、星座を表すと書いていたのは真鍋大覚。
いよいよ真鍋大覚を読み直す必要があるようですね。
でも、もう少し地形の観察をしておこうと思います。
(つづく)
地図 朝闇神社
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〇欽明二十三年(五六二)八月。天皇、狭手彦を遣して、高麗を伐たしむ。狹手彥(略)勝ちに乗じて宮に入り(略)鐵屋を得て帰る。(略)鐵屋は長安寺に在り。是の寺、何の國に在りということを知らず。
ところが、『大宰管内志』朝倉(上座郡)にそれはありました。
筑前国二十上座郡
○朝鞍寺 安楽寺御領目録に上座郡朝鞍寺領(略)とあり、昔々この朝倉神社の社僧の坊に朝倉山長安寺とて天台宗の寺院此郡の山田村にありしと云、いつの比に亡びたるにやすべえさだかなる事はしりがたし。
○橘廣庭宮(略)宮野村と云もあり。又これより北方近処に朝闇寺とて須川の枝村あり昔は朝闇寺と云寺ありしといふその寺跡いまもいちしろし。
大和朝廷は「自らが分捕った」はずの高麗からの戦利品のある「国」を知らなかったが、筑紫にあった。ということは高麗を撃った「国」は・・・
ということになるのでは。
その辺り、何とかくっきりと描き出せないかなと思っています。
ところで、太宰管内志には、朝鞍寺(長安寺)と朝闇寺とは、別寺として書かれているのですね。
同じ「ちょうあん」と発音出来るので、二寺を一寺と解釈してしまって、説明板には書かれていると考えられますね。
いかがでしょうか。