2014年 05月 19日
橘の広庭宮公園の上の金刀比羅神社
橘の広庭宮公園の上の金刀比羅神社
思いがけない所で高木の神と出会い、仲哀天皇の崩御と重ね合わせて考え込みながら、
帰ろうとすると、
「向こうに何かあるよ」と、るなパパ。
見ると、階段がありました。
杜の中の自然歩道を歩いていくと

あっ。これは!

写真でよく見かける橘広庭宮の石碑だ。
ここにあったんだ。
周囲を見回すと丘のピークという感じでしょうか。
横には農道がついていました。
広庭宮なら当然、平地にあるはずなので、不思議な場所に建てたんだなと
きつねにつままれたような印象でした。
「鳥居がある」
再びるなパパ。
鳥居があるなら行かずはなるまいて。

場所は石碑の後ろの方です。
柿の果樹園の中を通るとすぐに祠がありました。

そこもまた小山のピーク。
見晴らしのいい、イヤシロチでした。

向こうの山を遥拝する場所かなとも思ったのですが、
地図を見ても山に名前は付いていませんでした。
朝闇神社の上宮的な位置にあるピーク上の金刀比羅社。
この時思い出したのは宮野神社の右手の古墳の上の金刀比羅社。
同じような位置関係から、斉明天皇時代の祭祀だろうかと思いはしましたが、
何も分かりませんでした。
家に帰って朝闇神社を記事にするとき、ふと「朝闇神社」で検索すると、
古田武彦氏の「第四章 幻の筑紫舞 1」にヒットしました。
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/tyosaku15/tikumai1.html
これによると、朝闇神社には絵馬があったのですね (@_@
宮野神社にも絵馬があった!
知らなくて残念。
この記事は筑紫舞の探求ものなので、筑紫舞に焦点が当てられていますが、
掲載された白黒の絵馬をじっと見ると、
宮廷の女官など宮人たちが描かれていませんか?
思えば、別所神社や宮野神社は藤原鎌足や中大兄皇子の祭祀が始まりなのです。
その絵馬には斉明天皇や中大兄皇子の時代が描かれた可能性はないでしょうか。
これら、東西に並ぶ神社は都の周辺に位置しているのではないか。
絵馬は当時の雅びな宮廷人の暮らしを描いたものではないか。
そんな思いが生まれて消えませんでした。
宮地嶽神社の本(発刊はずっと先~)には筑紫舞の事も書いたので、
この古田氏の筑紫舞の記事を見るとまた安曇の世界に引き込まれそうです。
斉明天皇の殯の宮の横の恵蘇八幡宮でもついに筑紫舞が再現されました。
どこに行こうと、安曇の痕跡に出会ってしまう。
「るなさん、安曇を選んで回ってるんですか」
「いえ、私はブラブラです。でも、どこに行っても安曇がいるのです。
安曇は船に乗って全国の港へ、そして、くぐつ舞を持って山という山へ分け入ったから。
今では安曇が歴史の始まりとまでも言える」
これは昨日の友人との会話でした。
(つづく)
地図 橘広庭宮公園
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