2014年 05月 22日
朝倉橘広庭宮を探せ
朝倉橘広庭宮を探せ
朝倉橘広庭宮の所在地はまだ発見されていません。
最近、太宰府説も提出されましたが、朝倉においては次の3つの候補地が挙げられます。
1 須川
2 山田
3 杷木町志波(はき町しわ)
るな的手法は個々の神社の伝承を並べて全体像を浮き彫りにするというやり方です。
まだ、ブログでは紹介していない神社も含めて、これまでの伝承を並べてみます。
斉明天皇七年(661)
5月9日 朝倉に遷幸。
5月10日 斉明帝、宮地嶽神社(朝倉市)に参拝。(神功皇后・高麿・助麿)
5月11日 斉明帝、中大兄皇子と共に福成神社(朝倉市)に戦勝祈願。(三女神)
(源太老人の墓・宮殿橋・桂の池)
○月○日 斉明帝、藤原鎌足に命じて宮野神社を創建する。(大己貴)
○月○日 中大兄皇子 天皇の病気平癒のために別所神社を創建する。(イザナミ)
○月○日 朝闇神社で祭祀か?(高皇産霊)
7月24日 崩御。68歳。
8月1日 中大兄皇子は遺骸を橘広庭宮から木の丸殿に移して12日間服喪。
(御陵山。恵蘇八幡宮)
この中で、カギとなるのは「宮野~別所~朝闇」神社の東西の祭祀ライン。
とりわけ別所神社は「皇居の辺」にある。
また、福成神社の近くに宮殿橋がある。
天子の森は施政の地伝承あり。
次は太宰管内志から。
「○橘廣庭宮(略)宮野村と云もあり。又これより北方近処に朝闇寺とて須川の枝村あり昔は朝闇寺と云寺ありしといふ」
訳すと、「橘広庭宮は宮野村という説がある。その北の方に朝闇寺が須川の枝村にある」となりますので、
宮は宮野村にあると言われていたことが分かります。
これらをすべて含むとなると、条里が2キロほどの都を設定しないといけません。
この遷宮は天皇・皇太子・臣下・女官などの記載があるので、
百官百寮・軍隊も一緒で、相当規模の条里計画があったと想定できます。
もちろん、条里なんか未完成のものばかりでしょうが。
そこで、同時代の都のサイズを探してみました。
太宰府政庁 和銅年間(708-715)に造営が開始され霊亀年間(715-717)には完成していたのではないかと推定されている。またその広さは東西約111.6m、南北約211mであろう。(参考)藤原宮の広さ:東西約925m,南北約907m(参照 http://www9.plala.or.jp/kinomuku/dazaifu/dazaifu.html)
鏡山猛氏の復元図によれば、太宰府は右の図のように、南北22条(2.4Km)、東西各12坊(2.6Km)のほぼ正方形の街区を持つ都市であった。
藤原宮 925×907m
太宰府 2400m×2600m
で、広庭宮の都を900×900に仮設定してみました。
さて、風水師ならどこを選ぶ?
東:青龍 … 豊かな川の流れがある
西:白虎 … 大きな道があり交通の便がよい
南:朱雀 … 広大な平野や海があり視界が開けている
北:玄武 … 山や丘陵がある

宮地嶽神社を軸とすると、一番左。
宮野神社を軸とすると中央。
天子の森(○印がずれているような)を軸とすると右。
こんな感じになりました。
実は、前から朝倉東小学校を狙っていたんですが、天子の森ラインなら乗って来そうですね。
まだまだ、フィールドワークが足りませんが、とりあえず仮説を立ててみました。
以上、るな風水師でした。
(つづく)
地図 朝倉市
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