2014年 06月 22日
熱田神社(2)ヤマトタケル 鞍手から筑紫~佐賀へ
熱田神社(2)
ヤマトタケル 鞍手から筑紫~佐賀へ
そうだ、『福岡県神社誌』を見てみよう。
そうすると、祭神は次のようになっていました。
天照皇大神、忍穂耳命、邇々杵命、彦火々出見命、不合命、素盞嗚命、これを前回の祭神名と比較。
日本武命、宮簀姫命
(あまてらすすめ)(おしほみみ)(ににぎ)(ひこほほでみ)(あえず)
(すさのを)(やまとたける)(みやずひめ)
天照大神、天忍穂耳尊、瓊々杵尊、彦火火出見尊、鸕鶿草葺不合尊、素盞嗚尊、表記は違いますが同じ神々でした。
日本武尊、宮簀姫尊
さて、『福岡県神社誌』の由緒も訳してみます。
伝に日本武命が熊襲征伐の時、亀甲で天神地祇を祀られてそこに地神五代の大神を鎮座された、云々(うんぬん)。ヤマトタケルが近くにある亀甲という所で天神地祇を祀って、地神五代を鎮座したとあります。
文治元年に尾張国熱田大神を相殿に勧請した。その後、元弘元年に故(ゆえ)あって、社殿を司本嶽に遷す、云々。今の社地がこれである。明治五年十一月三日村社に被定。
天神と地祇とは天津神と国津神とも置き換えられますが、
ネットを調べると、どの神が天神で、どの神が地祇なのかは厳密な区別はないようです。
この祭神で見る限りは、「天照大神」が天神で、
「天忍穂耳尊、瓊々杵尊、彦火火出見尊、鸕鶿草葺不合尊、素盞嗚尊」が地神ということでしょうか。
もう一か所、書かれていました。
マトタケルは亀甲で天照大神を祀り、戻ってきてから再び天照大神を祀ったということです。
これ以上は分かりません。
合せると、社伝のようになりそうですね。
由緒の続きを読んでみます。
なお、社説に曰(いわ)く、
第12代景行天皇27年冬、日本武尊が熊襲征伐の時、新分(にぎた)の亀甲の名を愛でられて、ここに口嗽き(今池の口という社の西北五町の所にある)司本峯の榊葉を取って大麻(おおぬさ)とし、天神地祇を祝祭された。ここに地神五代の大神を合わせ祀って戦勝を祈られた。
のち、熊襲を征服し、帰途の際、この社に立ち寄られて奉賽(ほうさい)の御祭を盛大に行われた霊跡(れいせき)なので、里民は崇敬して仮殿を営み、松や榊を植えて祀ったところ、霊験あらたかで、庶民は参り集(つど)って、日に月に盛んとなったと言い伝えている。 (後略)
ヤマトタケルは亀甲で戦勝を祈り、熊襲を征服したあと再び立ち寄っています。

境内の右手の大木の後ろに階段がありました。
これは剣岳に到る道だそうです。
「え?剣岳の頂上には登ったことあるけど。八剣神社の頂上じゃない?」
「そうです。剣岳の両側に八剣神社と熱田神社があるのです」
「そうなんですか」
目からウロコ。
そこで、八剣(やつるぎ)神社の記事を読み直してみました。

●八剣神社(1)ヤマトタケルをもてなした一族の神社があった
●八剣神社(2)三柱の神々に受け継がれたのは草薙の剣だったよ
●八剣神社(3)上宮・ヤマトタケルの行宮跡は眺めが抜群だよ
http://lunabura.exblog.jp/i28/
当時、ヤマトタケルを迎えた首長は「田部今朝麿」という人でした。
松を植えた話や仮殿を建てた話も伝わっていました。
2000年近く前の話がこんなに具体的に残っているとは!
鞍手から中間・八幡にかけては、ヤマトタケルの話が沢山伝わっています。
恋のお話もね。
地元でガイドマップ作ってくれたらいいなあ。
佐賀に行けば、ヤマトタケルが竹内宿禰と組んで熊襲タケルと戦った話が伝わっていました。

●大願寺廃寺~健福寺 日本武尊が熊襲タケルを討伐した所だった
http://lunabura.exblog.jp/21648939/
●真手(まて)山 熊襲タケル対ヤマトタケル
http://lunabura.exblog.jp/21679856/
●ヨド姫三社めぐり(5)石神 世田姫
http://lunabura.exblog.jp/21638581/
「日本武尊が巡幸された時、樟の茂り栄えたのをご覧になって、勅して「この国は栄(さか)の国」というがよい」と仰せられた。そういうわけで栄の郡といった。後に改めて佐嘉の郡と名づける。」
●ヨド姫三社めぐり(3)與止日女神社2 日本武尊の記憶 桜桃沈輪はいずこ
http://lunabura.exblog.jp/21619021/
ざっとこんな感じ。
「佐賀」という地名の由来もヤマトタケルの言葉から来ていることになっています。
こんな風に立体的に繋がってくると、古代のイメージが豊かに再現されます。
筑紫のヤマトタケル、点と点がつながるといいなあ。
(つづく)
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