2014年 06月 23日
熱田神社(3)百済の王子を助けたクラジの君は葛子の子だった
熱田神社(3)
百済の王子を助けたクラジの君は葛子の子だった

さて、当社を訪れたきっかけは
「神社からいただいた資料に磐井の名があった」という一言からでした。
聞いたその日に伺う事になりました。
参拝のあと、宮司さん宅で系図を見せていただきました。
金川宮司家は現在79代目。77代の方が書きしるしたものが残っていました。
その一部です。
磐井ナル-葛子-鞍闇君-初メ 新分鄕 新延 鞍闇君の戦功に依りて賜ハル系図の空いた場所には「○鞍闇君は葛子の弟なり?」とメモ書きされていました。
系図の書き方を何度も見なおしましたが「鞍闇君は葛子の子」として大丈夫でしょう。
鞍闇君とは「くらじのきみ」と読み、他の書き方に鞍橋君、暗路君、倉師などがあります。
同じ鞍手には北磐津の名があります。
北磐津(きたのいわつ)は磐井の子です。ですから、葛子の兄弟にあたります。
その北磐津(きたのいわつ)が鞍闇君の可能性はないかと思って、
系図にその名を探しましたが、それはありませんでした。
系図には鞍闇君は「筑紫国造」と書かれているのですが、
磐井の末裔がどうしてそのような身分になって活躍したのかという問題も
葛子が筑紫君になったことを考えると、充分に有り得ることです。
あの磐井の乱ののち、継体天皇も物部麁鹿火(あらかい)も立て続けに死んでいるのですから。
筑紫を治める実権は磐井の末裔に取り戻されたと考えられます。
そして、鞍闇君は百済まで行ってその皇太子を助けているんです。
鞍闇君は『日本書紀』では鞍橋君と書かれています。
地元では「くらじさま」と呼ばれ、神社に祀られ、物産館の名前にもなっていました。
その鞍橋君の話を『日本書紀』で確認してみました。
百済の聖明王の皇太子・余昌(よしょう)は新羅を討とうとした。重臣たちは諌めて、「天はまだ味方する時になっていません。災いが起こるやも知れませぬ」と言った。
余昌は「老将たちは何をおびえている。私は大国(倭国)に仕えているのだ。どうして畏れることがあろうか」と言って、ついに新羅国に入ってクダムラ城塞を築いた。
父の聖明王は、「余昌は長くなった行陣に苦しんで寝食にも困っているだろう。父親として可愛がってやることもできず、あの子が親孝行をしようとしていて上手く行っていない」と憂い、自らも出陣してねぎらおうとした。
新羅は聖明王が自ら来たと聞いて、国中の軍隊を召集して道を塞いで撃ち破った。
この時、新羅は佐知村(さちすき)の馬飼奴の苦都(こつ)、(又の名は谷智(こくち))
に言った。「お前、苦都は卑しい奴婢だ。聖明王は名がある主(こきし)だ。身分の低い奴婢が名のある主を殺せば後世に名を残すだろう」
苦都は聖明王を捕えて拝んで言った。
「どうか王様の首を斬らせてください」
「王の首は奴婢の手にかかることはできない」と王は言った。
苦都は「我が国の法では盟約に反したものは国王といえども奴婢の手にかかるべし、といいます」と言った。
聖明王は天を仰いで嘆いて泣いた。そして、「私は常に死の覚悟をつけていた。命乞いはしない」と言って首を差し伸べて斬られた。
苦都は首を斬って殺した。穴を掘って埋めた。
一方、余昌は敵に囲まれて城塞から出られなかった。軍卒はあわてるがどうしようもなかった。
この時、弓の名手の筑紫国造(ちくしのくにのみやつこ)がいた。進んで弓を引いて新羅の騎馬の武将の中でも最も勇壮な者を狙って射落とした。放つ矢の勢いは鞍の前橋(まえつくらぼね)から後橋(しりつくらぼね)を射通し、その鎧の領会(くび)に及んだ。
また続けて放つ矢は雨のごとく、次々に激しく射られた。こうして包囲軍を退けた。
その結果、余昌や諸将は間道から逃げ帰ることができた。
余昌は国造が包囲軍を矢で退けたことを誉めて尊んで「鞍橋君」(くらじのきみ)と名付けた。
聖明王の言葉の訳、難しかったです。
で、訳してみると、ウィキペディアの余昌(威徳王)の解説が間違っているのが分かりました。
(主語が違っていた)
ま、るな訳もたいした訳ではないので、参考程度にしてくださいませ。
百済の皇太子の余昌は新羅に侵入してクダムラ城塞を作りましたが、戦が長引いてしまい、
父の聖明王が援軍をみずから率いて向かう途中、佐知村(さちすき)の馬飼の奴婢に斬られてしまいます。
そして自分たちも包囲されて身動きできなくなった余昌たち。その城内に筑紫国造がいて、敵将を狙って射殺したために敵は退却。余昌たちは城塞から脱出して助かります。
このとき、余昌は「くらじ君」の名を与えました。
これを読んで初めて知ったのですが、倭国軍は百済と行動と共にしています。
実はこの話の前にも、百済王は何度も「筑紫」に援助を頼んでいます。
これは欽明天皇15年の話です。
西暦何年なのか、欽明天皇の即位年が定まっていないらしく、
年代の割り出しは聖明王の戦死が554年いうことから分かりました。
この話は西暦554年の話でした。
磐井の死が527年。死後27年が経っています。
百済の皇太子とともに籠城したのが「筑紫の軍勢」で、その軍勢にいた鞍橋君は「葛子の子」ですから、
兵を送ったのは筑紫君すなわち葛子(あるいは次の世代)ということになります。
倭国は百済と同盟関係にあったことになります。
宮地嶽古墳に百済の寺と同じ緑のガラス板が沢山あった問題はこれで納得しました。
ガラス板は百済の寺では舎利を治める床に敷き詰められていたとか。
きっと宮地嶽古墳の奥にも同様に敷き詰められていたことでしょう。
そして、この熱田神社は鞍橋君が新分鄕や新延を与えられて治めたそうです。
でも、るなの想像では葛子は鞍手の姫を妻に迎えたと考えられ、
鞍橋君は当地の首長の家の出身ではないかなと思っています。
ここに案内してくれたユキさんありがとう。
そして、決めました。
くらじの君も磐井の末裔なんだから、『宮地嶽神社と筑紫君磐井の末裔たち』に
もちろん書かせていただきますよ!

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