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ひもろぎ逍遥

糸島水道は濁流に埋もれた


糸島水道は濁流に埋もれた


真鍋大覚は屋久杉の「縄文杉」の名付け親だと聞いています。
伐採された杉の年輪から縄文杉の年代を推定したそうですが、
年輪に現れる台風斑点も測定して年代を特定し、
それと日本の歴史と繋ぎ合せるという興味深い研究をしています。

真鍋は、雄略天皇の時代に瞬間最大風速107・9m毎秒の風が吹いたと書いています(@_@;)
100m超えというのは観測記録にあるのでしょうか。

調べると、「第2宮古島台風」(昭和41年台風第18号)
が瞬間最大風速85.3m毎秒を記録していました。

世界記録ではアンダーセン空軍基地(グアム) :1997年12月16日に105.5m/s。

そうすると、真鍋の推定は荒唐無稽な数字ではないようです。

そしてこの時、糸島水道は泥流に見舞われ、怡土と志摩が繋がったというのです。
その記述を読んでみましょう。

「玄海灘の海上気象」p130から
雄略帝17年8月、日本は空前絶後の台風が来た。屋久島安房、下屋久営林署に保存されている標本は幅17.2m、33年の年月にわたって台風斑点が残っている。

風速に換算すれば最大値は10分間平均にして76.3m毎秒、瞬間最高値にして107.9毎秒という値が推定される。

熊野年代記、紀伊南牟婁郡誌などの文献には、
八月 熊野台風 諸木ことごとく倒れる
と簡潔に記録してあるだけで、古事記にはいささかの片鱗も見出せない。

ただし日本書紀第14には雄略帝18(474)年に、「秋、8月、(略)物部菟代(うしろ)宿禰、物部目連(つぶらのむらじ)を遣わして、伊勢の朝日郎(あさひのいらつこ)を討たせた。」とあるのは、天災の後に必ず起る暴動の鎮圧に他ならない。
営林署に保存されていた標本に残る台風斑点から計算しているんですね。
真鍋の専門は「航空機運動安定論、極長周期波動解析」というものなので、
風の計算とか独自の手法を持っていたのでしょう。

熊野の山の木がすべてなぎ倒された話はテレビで見た記憶があります。
このあと「伊勢の朝日郎を討たせた」のは天災後の暴動が起ったからだと
真鍋は結論づけています。

この続きに糸島半島の話題が出てきます。
怡土と志摩の百姓に巨万の富と力を与え、ついには金に幻惑魅了されて緑の山河を荒廃させた砂鉄と爐の悪循環は、神の怒りが長い間の隠忍の限度を超えて一瞬に爆発したかの如く、山なす泥流濁土となって糸島水道にあふれ、これを永遠に埋没陸化したのである。

怡土(いと)と志摩は良質の砂鉄が採れ、
6世紀には26基の製鉄の炉が作られています。(元岡)

日本列島へは多くの渡来人が海を渡って来た歴史がありますが、
戦乱による亡命以外にも、鉄や金やヒスイなど、富を得るための渡来もあり、
物欲は現代人と変わらないのではないかと思うようになりました。

真鍋もまた、人間の欲が糸島の自然破壊を起こしたのだと、泥流の根源を見抜いています。


さて、糸島に「水道」があったのかどうか、
近年、ボーリング調査があって、陸続きだったという論文が書かれているそうです。

論文を読んではいませんが、海峡というのは幅3mの川でも繋がってしまうので、
はたしてボーリング調査は全体を網羅することが出来たのだろうかという疑問を持っています。

その論文を読んでいない者があれこれ言うのは何ですが…。

陸峡があったにしろ、怡土と志摩の間にはかつては船を泊める良港がありました。

真鍋は「糸島水道」がこの5世紀の台風の時に埋まってしまったと推定しています。
これもまた論証を読む必要がありますが、この部分で伝えたいのは、
鉄の民が砂鉄を掘り起こし、炉を作るために土を掘り起こし、
燃料になる山の木を伐採し尽くしたために、糸島の山は丸裸になり、
崩落がひどく、ついに台風の時に大崩壊が起こって水道が埋まってしまったということです。

今回、広島の災害で花崗岩が風化しやすい話が紹介されていますが、
糸島は玄武岩で、風化剥離脱落して糸島水道に堆積していった、ということだそうです。

糸島平野の水稲栽培はきわめて早く、すでに班田収授の制度が確立された頃の鄕村帳が最古の文献として残っている。

暗黒の芥屋大門(けやのおおと)を浮かべる玄海灘の海流は藍青の色をたたえて滔々と北流する。これだけの勢力を以てしても、今に至るまで、ふたたびかつて神功皇后の船団が隊伍を揃えて堂々と通過した昔の姿に復元することは不可能になった。

陸化が汀(みぎわ)線降下、地盤上昇に起因するものでないことは、海面に巨大な口を開く洞窟の中心位置が今も昔も変化していないことで明瞭である。
五十迹手(いとて)は独自に船団を組んで今津湾で
皇后の船団と合流して外海に出たと推測しています。

伊都国の大船団を係留するのに適した水道が埋まったあと、
強い潮流が水道を洗い続けても、二度と水道を復活させることは出来なかったと言います。

ある研究会で北部九州が地盤上昇した可能性を述べた方もありましたが、
芥屋大門の観測から、地盤上昇はしていないと真鍋は言います。

(つづく)


糸島水道は濁流に埋もれた_c0222861_2038696.jpg


筑前における古代の製鉄遺跡の分布
画像出典「福岡市元岡・桑原遺跡群の概要」より
http://www.kuba.co.jp/syoseki/PDF/3274.pdf





糸島





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by lunabura | 2014-08-27 20:40 | 古代の筑紫あれこれ | Comments(0)

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