2014年 09月 02日
野見宿禰VS当麻蹶速・鍛冶師対決としての新解釈
野見宿禰VS当麻蹶速
鍛冶師対決としての新解釈
今回は「玄海灘の海上気象」(真鍋大覚)のp131です。
野見宿禰と当麻蹶速(たぎまのけはや)の相撲について、
真鍋独自の解釈が書かれています。
『日本書紀』巻第六、垂仁紀にはBC23年のこととして、つぎの記事が見える。有名な相撲の話ですが、ウィキなどには具体的な話が紹介してありませんね。
垂仁七年の秋、七月七日にお側の者が申し上げた。
「当麻(たぎま)邑(むら)に勇み強い人がいます。当摩蹶速(たぎまのけはや)と言い、その人となりは、力強く角を壊し、曲がった鉤(武器)を伸ばします。いつも『四方に探しても我が力に並ぶものはおるまい。力の強い者に会って生死を問わずにひたすら力比べをしてみたいものだ』と言っています」
天皇はそれを聞いて、群臣に言われた。
「朕(わたし)は当麻蹶速は天下の力士だと聞いたが、これに並ぶ者はいるか」
臣下の一人が進んで申し上げた。
「出雲国に勇士がいます。野見宿禰といいます。試みにこの人を召して蹶速と勝負をさせたらいかがでしょうか」
その日のうちに、倭直(やまとのあたい)の祖(おや)・長尾市(ながおち)を遣わして、野見宿禰を召した。野見宿禰は出雲からやって来た。
当麻蹶速と野見宿禰に力比べをさせた。
二人は向かい合って立った。おのおの足を挙げて踏んだ。野見宿禰は当摩蹶速の𦚰骨を踏み砕き、その腰を踏み砕いて殺した。そこで当摩蹶速の領地を没収してすべて野見宿禰に賜った。その邑に腰折田(こしおれだ)があるのはこのせいだ。野見宿禰はそこに留まって仕えた。
魏志倭人伝の不弥(ふみ)は野見(ぬみ)、投馬(とうま)は当麻(とうま・たぎま)とし、「宿禰」は脛、骨、「蹶速」は足毛などとすれば、北方蒙古系と南方琉球系の相撲(角力)、唐手の対決と解せられるが、
これは鞴(ふいご)の足踏の達者さ、ズク、コケラの製造剥離作業の迅速さ、熔融鋳造の技術の良否を投馬産と伊都産の砂鉄で比較し、ついに筑紫側に凱歌が揚がったことを暗示しているのではないだろうか。
垂仁帝(BC29~AD70)の在任中にはすでに九州各地で製鉄業者が技を競っていたことになる。
一方はすでに鑿(のみ)になったが、他方はまだ湍間(たきま)すなわち固化した鋳鉄以前の沸騰状態に在るという遅速の相違を二者の姓が示しているのである。
改めて訳してみると、力自慢の当摩蹶速が誰か力自慢と対決したいというので、
出雲の野見宿禰を呼び出して対決させたら、野見宿禰の方が強くて、
蹶速を踏み殺してしまったという話です。
これは相撲の始まりとしてよく紹介されていますが、こうして原典を読んでみると、
私たちが知っている相撲とは少し違っていますね。
対戦時に「足を挙げて踏んで」います。
シコを踏んだのかと思ったら、相手を踏み砕いています。
現代の相撲とは全く違いますね。
現代人から見ると、当摩蹶速が殺されてしまう理由も分かりません。
蹶速が「生死を問わず」と言ったから、と書紀は理由づけられるようにしていますが、
セリフがある場合は、8世紀の人が当時の人が納得するように作ったものなので、
創作されたものと考えています。
(その点は、神功皇后のセリフも同じです)
真鍋はこの「足を挙げて踏む」は「フイゴを足で踏む」と解釈して、
対戦を製鉄の仕事ぶりの対決として読み取っています。
材料も、投馬産と伊都産の砂鉄、とそれぞれが自分の使い慣れたものを使用したとしています。
そういえば、蹶速(けはや)という名前は「フイゴ踏みが強くて速い」という意味にも解釈できます。
二大産地の代表的技術者の対決は
野見宿禰の野見は「鑿」(のみ)が出来あがったが、
当摩蹶速の「たぎま」はまだ鉄が沸騰している状態の「湍間」(たきま)だった。
そのような話です。
これを読んでいて二点ほど分からない所がありました。
1・投馬(とうま)と当麻(とうま・たぎま)は発音が同じだという事ですが、
投馬国を具体的に何処に比定しているのか、文脈からは分からない。
2・不弥国は、真鍋は宇美町付近を比定しているので、
これと伊都産の砂鉄のつながりが分からない。
―伊都国の砂鉄が宇美町まで運ばれて製鉄されたということでしょうか。
この疑問点が解決付かず、消化不良なので、パスするつもりでしたが、
コメントに野見宿禰の名が書かれていたので、びっくりして、書くことにしました。
それに、昨日整理していた星の資料の中にも、のみの星の名が出てきて
これまたびっくりしたのです。(+_+)
能美星(のみのほし)
華南の蛋民の子孫が筑紫に坩堝(ゆあみ)金炊(かなたき)の技術を伝来した歴史を教えております。(『儺の国の星』p136)
「のみの星」とは金星のことです。
さて、この野見宿禰の末裔に菅原道真が出ています。
道真公は左遷されただけでなく、厳しく弾圧されたような話が九州でチラホラ聞かれます。
平家狩りと同じ様相なのかな…と考えるようになりました。
「若松」をシンボルとする竹内宿禰から「老松」をシンボルとする菅原道真まで、
同じように製鉄集団を抱えていたとすると、
「倭国」と「日本国」がもう少し立体的に描きだせるかも知れませんね。
そう、これで「松竹梅」が揃いました。^^
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若松恵比須神社
祭神事代主命(ゑびす様)、武内宿禰命
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