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ひもろぎ逍遥

(2)福母八幡宮・景行天皇と神功皇后が祀った

壱岐真根子と竹内宿禰の旅(2)

福母八幡宮
ふくも
景行天皇と神功皇后が祀った


武雄北方インターから東へ10分。
地図を見ると、真っ直ぐ通っている34号線に平行して
くねくねと曲がった旧道が北の方にあります。

一見して古代の海岸線だと分かります。
古代の歴史を刻んでいるのはその古い道の方でした。

福母八幡宮もまた、その古代の道沿いにあります。

ナビは細い裏道、裏道へと案内していきます。
「きっとダイレクトに本殿の横に案内するのよ」
「石段を上らなくていいようにね」

福岡の神社でナビに従うと、ご親切にも離合できないような細道を案内してくれます。
石段を上らずに済むようにというナビさんの配慮でしょうが、運転する人は大変。
佐賀でも同じ現象が起こっているようです。

車の切り返しをして、急坂を登ると本殿の横に出ました。

(2)福母八幡宮・景行天皇と神功皇后が祀った_c0222861_2053848.jpg


今日の道案内は『佐賀県史蹟名勝天然紀念物調査報告書 上巻』(出版佐賀県)です。

それによると、ご祭神は
仲哀天皇、神功皇后、応神天皇です。


(2)福母八幡宮・景行天皇と神功皇后が祀った_c0222861_20533799.jpg


そして、摂神として、13柱が掲げられています。

国常立尊、高皇産靈神、伊邪那岐神、伊邪那美神、天疎向津姫神、天津彦火瓊々杵尊、表筒男、中筒男神、底筒男神、天之事代神、地之事代神、武雄心命、武内宿禰

多いですね。
でも、一つひとつ見ていくと、当ブログでお馴染みの神様ばかりです。

国常立尊、高皇産靈神、伊邪那岐神、伊邪那美神、天疎向津姫神、天津彦火瓊々杵尊、表筒男、中筒男神、底筒男神、天之事代神、地之事代神武雄心命、武内宿禰

赤字の神は小山田斎宮で名乗りを挙げた神々です。
仲哀天皇の死に関係する神々でした。

そして、最後の二柱、武雄心命と武内宿禰は父と子。
後の時代に祀られたことが分かります。

神功皇后が祀った神々、そして、竹内宿禰の末裔が祀った神々という印象です。
それでは、残りの五柱は?
その答えは縁起に書かれていました。

景行天皇15年、肥後より龍舟にて杵島県石崎に(大町村大字福母の新宿古八幡社の処)来御。土蜘蛛八十女を誅し、その礼奠(れいてん)として石崎へ国常立尊、伊邪那岐、伊邪那美両神、天津彦瓊々杵尊、高皇産靈神の五神を祭られた。これを当社の創始とする。

五柱は景行天皇が祀ったんですね。
景行天皇は当社の近く、「石崎」に船でやって来て、土蜘蛛八十女(やそめ)を滅ぼし、
戦勝のお礼に五神を祀りました。

この「石崎」は当社から西にほぼ300mの所で、「古(こ)八幡社」が残っています。
この「石崎」の地名が何度も出てきます。

縁起には続けて神功皇后の名前も出てきます。
仲哀天皇九年三月神功皇后は新羅征伐の時、杵島県石崎に来御あり、諸賊を誅滅され、その礼奠として、天疎向津姫神、天之事代神、地之事代神、表筒男命、中筒男命、底筒男命を勧請された。

やはり神功皇后自身が小山田斎宮で名乗られた神々を祀っていました。

「事代主神」は恵比須様のことですが、実はずっと一緒に祀られています。

事代主は大国主の御子神で出雲系ですが、神功皇后が気比から瀬戸内海を渡航するときの
船団の海人族の神かなあ、と推測しているのですが、よく分かりません。

影のように支えている印象があるのです。
そして、その事代主が天と地の両方にあるのは初めて見ました。

「表筒男命、中筒男命、底筒男命」は住吉三神ですね。
仲哀天皇に龍船や神田を要求した神々です。
住吉族もまたずっと神功皇后を支えています。

「天疎向津姫神」(あまさかるむかつひめ)は天照大御神の荒魂とされています。
この神が仲哀天皇の死に関わった理由が今も謎のままです。


さて、この文に何気なく書かれている日付に注目しました。

「仲哀天皇九年三月」となっています。
『日本書紀』によると、3月20日に夜須(層増岐野)に着いて羽白熊鷲を攻撃。
25日に山門県で土蜘蛛田油津姫を攻撃。
4月3日に松浦県の玉島里に到着。

3月25日から4月3日のわずか9日間で山門県から松浦県に出ているのです。
そうすると、有明海コースは不可能で、高橋津から脊振山の峠を越えたのではないかと推測しました。

そして、この福母八幡宮では「3月」に杵島県に到着とあるので、
るなの推定コースを裏付ける縁起に出会ったのです。


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各神社の伝承ルートを繋いで水色の線で表しました。ガイドブックの下巻の内容です。

このスピード感から考えると、
筑後から肥前にかけての土蜘蛛討伐は練りに練った作戦だったのが分かります。

そして、仲哀九年の『日本書紀』の記事は正確に記録されたものではないかという思いが強くなりました。
従軍書記官がいたに違いありません。
当時、すでに倭人は文字を知っていたでしょう。

周から呉から、秦から人々が渡来しているのですから、
「漢字、持って来たっす」と、古代人は申しているようです ^^





福母八幡宮






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Commented at 2014-09-08 14:44 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by miduha at 2014-09-08 16:08 x
車がすれ違うのを「離合する」というのは福岡の(九州の?)方言だそうですね。私も普通に使っていたのですが、最近知って意外に思いました。
関係ないお話で申し訳ありません。
いつも楽しみに拝見させていただいております。
Commented by lunabura at 2014-09-08 21:17
非公開さん、はじめまして。
神武の2600年前というのは、さすがに計算、無理ですよね。
でも、自分では正しい計算ができないので、そのまま2600年を利用しています。^^
神武天皇と神功皇后は一部移動ルートが重なっています。
古代の道は限られているからでしょう。
神武天皇の家族の伝承と神功皇后のそれは全く違っています。
行宮地なども違っているので、別人に違いないと言えるでしょう。

本当に三韓だったかどうかは、対馬までは辿れるけれど、その先は不明です。
ただ、三韓の朝貢船や王子たちの来日の伝承は結構残っています。
「疑うこと」は大切ですよね。
そして、歩くと結構、棒に当たるものです^^
Commented by lunabura at 2014-09-08 21:21
niduhaさん、はじめまして^^
あはは。
そう、そう。「離合する」って、福岡の方言だって、何かで聞きました。
車社会になって生まれた言葉ですよね。
訪問されている方々、是非とも他県ではどう言っているか教えてくださ~い。
「狭い道路を対向車がすれ違う」という意味の言葉です (*^^)v
Commented by 呑舟 at 2014-09-09 21:05 x
広島も離合だと思います
Commented by lunabura at 2014-09-09 23:04
広島! ありがとうございます♪
Commented by ぱら at 2014-09-10 01:07 x
車社会になって生まれた言葉というより、鉄道用語発だそうですよ。単線での運行時上下線何処かですれ違えるようにする。って事らしいですから全国区の言葉だそうです。
が、福岡は石炭運搬のため上下線運搬列車が頻繁に行きかい言葉もその分よく使われていたのが車社会に使われたようですって。

歩いて歩いて伝承を拾い集めておられるお姿に、その地その地の埋れてしまった出来事が浮かび上がるご縁が積み重なるようですね。
求めよさらば開かれん!杖さえ立てれば温泉も湧くかも!
呵呵大笑
Commented by lunabura at 2014-09-10 21:36
へえ、そうなんですか。
始まりを知ると、ホント納得ですね。

その地の伝承は是非とも地元の方々に知っていただきたいという思いが最近はつのっています。^^
by lunabura | 2014-09-07 21:02 | 真根子と竹内宿禰 | Comments(8)

綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25

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