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ひもろぎ逍遥

(3)福母八幡宮2・竹内宿禰は新羅陶器に剣と鏡を納めて埋納させた

壱岐真根子と竹内宿禰の旅(3)

福母八幡宮2

竹内宿禰は新羅陶器に剣と鏡を納めて埋納させた
 


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縁起の続きには竹内宿禰が当地に戻って来た様子が書かれていました。

同年(仲哀九年)九月武内宿禰参拝。剣鏡を奉納する。翌年正月、宿禰は再び参拝。剣鏡盗難の恐れありと、これを新羅陶器に納め、後ろの巌頂に埋没するように命じた。

また、石崎を布具母(ふぐも・皇后陣具を布(し)くという意味)と改め、後年、福母と称した。

神功皇后が当地に来たのは九年三月で、山門県で田油津姫を滅ぼした後に当たりますが、
竹内宿禰はずっと同行していました。

ですから、同年九月に再び参拝したということは、次なる大戦(おおいくさ)、
いわゆる三韓攻撃への戦勝祈願の時期に当たります。

そして、翌年正月に再び参拝していますが、既に神功皇后が出産したあと。
皇后は久山町の斎宮(いつきのみや)で産後を過ごし、
竹内宿禰は黒殿(くろどん)神社で陣営を固めていた時期に当たります。



冬の数ヶ月間、大分宮への出発準備期間に、竹内宿禰は当地に戻って来ました。
剣と鏡を新羅陶器に納めなおしたというのは、戦勝の象徴なのでしょう。

その現場は「石崎」というところで、福母八幡宮からは300mほど離れています。



縁起はさらに続きます。
応神天皇九年に武内宿禰はその弟に讒言されて、八幡社へ参詣して祈願した。
これですね。
今回の旅の目的が出てきました。

異母弟が竹内宿禰を抹殺しようと、天皇に偽りを申告しました。
その知らせは、竹内宿禰にすぐに届いたようで、八幡社に無実が明らかになるように祈願しています。
ということは、竹内宿禰の住処は近い?


縁起の続きに、
神護景雲元年に勅あり、八幡神社に八幡大明神を勅命で勧請され、霊神を猿通山に遷座された。

とあります。
岬の名前は「猿通山」といい、神護景雲元年(767)に「石崎」から遷座しています。

とりあえず、「石崎」に行ってみましょう。




福母八幡宮を出ると、裏手には池がありました。

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写真の右端に土手がありますが、その下はかなりの低地になっています。
土手が決壊したら民家が水浸しになるような地形です。

地名研の古川氏によると、これは入江の奥の地形を利用して土手を作って
溜池にしたもので、佐賀にはこのような地形が沢山あるそうです。

地図を見ればそれがよく分かります。
リアス式海岸のようになって、岬が次々に現れる感じです。

真鍋は脊振山系は氷河期の氷が削って行ったと書いています。
リアス式は東北の海岸だけの話ではありませんでした。



福母八幡宮の石段、こんなに急でしたよ。

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景行天皇や神功皇后が船で来たという事は、有明海がまだ奥深く湾入していた時代で、
古代の地形をよく示す伝承です。


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正面に回りました。
私が立っている所は、古代は海の中?

有明海特有の数メートルの満ち引きのある浜辺に立っているようです。
私の後ろには国道とJR佐世保線が走っていて、それが建設当時の海岸線だったそうです。

私たちは地図と照らし合わせながらキョロキョロと神社を探しました。








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by lunabura | 2014-09-08 20:59 | 真根子と竹内宿禰 | Comments(0)

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