2014年 09月 10日
(4)古八幡(石崎八幡) 土蜘蛛 八十女
古八幡(石崎八幡)
土蜘蛛 八十女
古代の岬の裾をぐるりと回りながら進むと人家の切れた所に杜が現れました。

ここが「石崎」「古八幡社」です。

祠が残っていて、祭祀も10月19日に行われているようです。
目の前は古代の湊。
ほんの少しの石段ですが上れば古代の海が広がります。
この湊を巡って、天皇家と土蜘蛛たちの戦いがありました。
再び、『佐賀県史蹟名勝天然紀念物調査報告書 上巻』を開きましょう。
四、土蜘蛛退治当時の古墳
景行天皇の龍舟が福母の前海に近づいた時、土蜘蛛八十女らは龍舟を焼き討ちにしようとした。この時、志久津彦が密告した。天皇は謀(はかりごと)をめぐらして、彼らを皆殺しにした。
石崎、赤坂の海浜は屍(しかばね)が累々と打ち上げられた。これを埋葬した古墳を八十女の古墳といい、国道の北、二十間(約36m)、慈雲山の墓地にあり、五間(約9m)離れて二個ある。高さ五尺(約150㎝)、周囲百歩である。
一つは鉄道工事のために破壊され、一つは現存するが、去る大正11年、秋月某女をその墳上に葬った。この古墳は西福寺住職の管理する所である。
景行天皇は北部九州の各地で土蜘蛛を滅ぼしていますが、
八十女たちはその情報を手に入れていたのでしょう、
景行天皇の船を焼き討ちにしようとして、逆に滅ぼされてしまいました。
文化財の方に尋ねると、弥生遺跡は役場や小学校で発掘されているそうです。
それは八十女の集落なのでしょうか、あるいは敵対する集落なのでしょうか。
八十女たちの古墳は二つ。そのうち一つが現存していると書かれています。
町史の地図にもその場所が書かれています。
伝承がある古墳はめったに存在しません。
発掘すれば、景行天皇の時代が特定できるかも知れませんね。

境内から見て左手の森がかつての岬です。
その麓に古墳が二つあったということです。
さて、前掲書によると、八十女の住んでいる所も伝わっていました。
五、鬼塚(土蜘蛛八十女の住んだ所)
福母城山の北、字京の尾にあり、佐賀炭坑区域より一丁余り。この塚は岩石を横へ、その上に一枚の大平石で覆い、その三方を土で盛り、南一方を入り口に開き、穴中は畳三枚敷けるほどである。北方村大字志久江口儀八氏の所有である。
「岩石を横へ」というのは「横たえ」と読むべきでしょうか、岩場を利用した洞穴でしょうか。
イメージが湧きません。
が、住所も所有者もはっきりしています!驚きですね!
弥生の住居跡ということになります。
是非とも、現地を見たいものです。
そして地元の方に伝承を掘り起こしていただいて、
先住の民の歴史を後世に伝えていただいきたいなと思いました。

想像図。
そうして、この地では再び戦いが起こります。(つづく)
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