2014年 09月 22日
淀姫神社・豊姫はここで亡くなった
淀姫神社
佐賀県武雄市朝日町
豊姫はここで亡くなった
竹内宿禰を一カ月近く追って来たのですが、その途中、
配偶神の豊姫の死地に立つとは想像もしていませんでした。
私の中では、これまで、ずっと謎めいていた姫神だけど、
ここ武雄では豊姫の軌跡が濃厚に残っていました。
昨日、お話会を終えてなお、心に残り続けるのがこの姫神だったのです。

ここは広い平野、石段は無く、石の橋を渡っていきます。


御祭神は淀姫命 ほか 六柱。
淀姫神社ですから、祭神が「淀姫」なのは当然なのですが、
境内の由緒書には思いがけないことが書いてありました。
「淀姫」とは「豊姫」のことで「神功皇后の妹」の事なのです。
淀姫神社の祭神は神功皇后の妹の淀姫命で、またの名を豊姫ともいい、朝日村の村社であった。
神社の創建のいわれは、神功皇后の朝鮮出兵の時、妹の淀姫が後をしたって武雄温泉に来られ、丸山の風景をながめ、長旅の疲れを慰められたという。
皇后の旅立たれた後、淀姫は二十二歳の若さでここ川上の地で亡くなり、御霊を祀るため建てられたと伝えられている。
淀姫すなわち豊姫は姉を慕って武雄温泉に来て、のちここで亡くなったというのです。
わずか22歳。
年齢まで伝わっていたんですね。
姉の息長帯姫が皇后となった時、豊姫は13歳頃でしょうか。
姉は15歳ぐらいでしょうか。
これは『日本書紀』とは合わない想定ですが、
実は私はずっとこの年齢ぐらいではないかと思い続けていました。
昔の女子の適齢期は中学生ぐらいの年齢なんですね。
息長帯姫(神功皇后)が8年近く懐妊しなかったのは、
まだ幼い時に嫁いだからではないかという思いもありました。
昔は、年に二回年を取ったので、記事通りに三十代で嫁ぐことはなかっただろうとも。
古代は姉妹で嫁ぐ例も多いので、息長帯姫と豊姫は共に嫁ぎ、
のちに、豊姫は竹内宿禰に下されたのだろう、なんて想像もしてました。
この縁起には竹内宿禰の姿が見えませんが、武雄温泉にはその姿が見えています。
神功皇后三韓より凱旋の時、筑前にて御病臥、神諭あり「三日路の処に温泉あり入浴すべし」と、直ちに大臣武内宿禰を従え、御臨幸ありしと。
(佐賀県史蹟名勝天然紀念物調査報告上巻)
神功皇后が筑前で病臥したというなら、産後の肥立ちが悪かったのでしょうか。
病気を押して武雄まで湯治に来ています。
るな的想像では、この時、豊姫も一緒だったのではないかと。
ところが豊姫も病に伏してしまい、竹内宿禰は豊姫に心を残しながらも、
皇后を守護し続けて、筑前へと旅立ったのではないかと。
そして、豊姫は一人で黄泉の国に旅だった。
「武雄市史」には、お付きの者が一人いたことが書かれています。
豊姫は志式神社や高良玉垂宮の縁起に、
海神から干珠満珠を貰った人として登場していました。

私は、豊姫が竹内宿禰の妻だったということを聞いても
イメージが湧きませんでした。
しかし、古代の人はみんな知っていたのでしょうね。
私はここに来て初めてそれを得心しました。


ここは「がばいばあちゃん」のロケ地。

水がとても豊かな所でした。
佐賀県武雄市朝日町中野10247
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by lunabura
| 2014-09-22 21:18
| (ヤ・ラ・ワ行)神社
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