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八艘帆が崎・五十猛、百済王子・阿佐太子、空海が上陸した


八艘帆が崎
はっすぼがさき
五十猛、百済王子・阿佐太子、空海が上陸した


「八艘帆が崎」。
船と岬が連想される地名ですが、平野にあります。


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ここは佐賀県杵島郡。


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ここにはかつては海が広がり、小山は島でした。
緑なす田を海原に変えるとイメージが湧きますね。

左手が八艘帆が崎で、正面に見える森が島でした。
その向こうに、武内宿禰の居館跡山惣があり、その近くの石崎に湊がありました。

山と山の間の低くなった峠を越えて唐津へ抜けることが出来るような場所です。


そして八艘帆が崎の説明板。
そこには百済王子の渡来が書かれていました。
その名は阿佐太子。

八艘帆が崎(はっすぼがさき)
 古代海中に浮ぶ杵島山の山麓東南に二大良港があり、
一は竜王崎、二は八艘帆が崎である。

一、口承によれば稲佐大明神着岸のところを焼天神と伝えている。

二、神代の時、素盞嗚尊の子、五十猛命は孤津、大屋津命と共に韓地より樹種を持ち帰り、この岬に着岸され全山に植林せられたと言われている。

三、稲佐山累縁記によれば、百済聖明王の王子阿佐太子は、欽明天皇の勅命により、火ノ君を頼り稲佐に妻子従房数十人、八艘の船にて来航、座所二カ所を設けらる。

一を北の御所と言い、一を太子庵という。この岬に八艘の帆を埋没したので、その後八艘帆が崎と言う。

四、平城天皇大同二年、空海上人(弘法大師)帰朝し、ここ八艘帆が崎に上陸、太子庵にて稲佐山開創の事務を執らる。
補、焼天神の 白は、八艘帆が崎と同じである。

平成四年四月吉日   御即位大嘗祭記念
稲佐文化財委員会

うむ。如何ですか。
どれもこれも重要な話です。


有明海沿岸という、干満の差が数メートルに及ぶような土地には、
外洋船が泊まれるような湊はいくつもは無いのですね。

その点、当地は水深があったため、外洋船が停泊し、
五十猛、阿佐太子、空海という人たちが次々に足跡を残しました。

「二」の五十猛は久し振りに出てきました。
樹の種を持って来た神ということで、古代史でもよく名の出てくる人ですが、
ここがスタート地点だとすると、また面白い展開が望めそうです。

巨石と絡まっているので、調査のターゲットに再び入ってきました。
全容が分かるといいですね。

「三」の阿佐太子。
聖明王の王子で、欽明朝に火ノ君を頼って妻子も連れての着岸です。
火ノ君は王子の為に二カ所の座所を設けています。

あいにく、この日は稲佐山全体を探査しておらず、郷土史も調べなかったので、
これ以上の事は分かりません。

説明板では「欽明朝」ですが、阿佐太子をネットで調べると、
「推古朝」に出てくるらしい。
聖徳太子の画像を描いたという伝承があって、韓流ドラマに出てくるらしい。

でも、「欽明朝」と「推古朝」。
これは違う人?同一人物?

欽明紀なら、磐井の孫、すなわち宮地嶽神社の勝村・勝頼や
熱田神社の鞍橋君の時代に当たるのです。


熱田神社(3)百済の王子を助けたクラジの君は葛子の子だった
http://lunabura.exblog.jp/22277202/
鞍橋君の系図のお蔭で、磐井は新羅ではなく、
百済と関係が深かったことも分かったのです。

この辺りが、『宮地嶽神社と磐井の末裔たち』の論題の一つでもあります。

自分でも、もう一度読みなおそう。
資料がないけど、ちょいと調べてみます。





八艘帆が崎





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by lunabura | 2014-10-15 20:59 | <地名・地形・伝承> | Comments(0)
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