2014年 12月 09日
4 御笠団印出土地 御笠軍団と遠賀軍団
4 御笠団印出土地
御笠軍団と遠賀軍団
坂本八幡宮を後にして、ゆるゆると坂を上って行きました。
山の麓に新しい住宅街が張り付くような地形になって、
別れ道を左に進むと空地がありました。
それがあの御笠軍団の銅印が出土した所でした。
現地説明板です。
御笠団印出土地
701年の大宝令(たいほうりょう)に定められた軍団(軍隊)の印判が発掘された所である。軍団は全国に置かれ、普通一軍団は兵士千人で構成され、その兵士は成人男子から三人に一人の割で徴発された。平安時代初め筑前国には4軍団があり、この印にある御笠軍団はそのうちの一つだったと思われる。近くの水城小学校からは遠賀団印が出土している。 太宰府市
これは銅印です。高さ5.2 印面4×4
金印より大きい印象です。
昭和2年(1927)に桑畑の中で農作業中に偶然発見されたものだといいます。
しかし、発見者がこの印の鑑定を大学教授に頼んだら、
大学教授が所有権を主張したために争いになり、
喧嘩両成敗で国が漁夫の利を得たといいます。
この問題がずっと腑に落ちず、現地を見たかったのです。
鑑定した人が所有権を主張するのはおかしい、と今なら思います。
たとえば「何でも鑑定団」に鑑定を依頼したところ、本物だったから、
テレビ局が所有権を主張した、というようなことになります。
現代ならあり得ないことです。
昭和2年というのがそんな時代だったのでしょうが、
聞き取りをしていると、あちこちで、
鏡や剣などを大学の先生や歴史資料館が借りて行って
返してもらえないという話を聞きます。
そして売り飛ばした話も。
あるいは放置して、存在しなかったものとする。
あるいは遺跡を破壊したり、コンクリート漬けにしたり、などなど。
残念ながら調査する機関そのものが信用できない風景が見られます。
九州は掘れば何処からでも何かが出てくるような風土なので、
自宅で保存されているケースもあります。
個人収蔵されたものは代替わりしたあと、ゴミとなる可能性もあり、
各市町村の資料館がもっと機能するようにならないと
多くのものを失うのだろうなと思っています。
この対策として、市民の関心がもっと高まる必要があります。
一人ひとりが郷土の歴史を調べ、誇りを持ち、監視できるようにならないと、
九州の出土品は失われるのではないかと危惧しています。
さて、話を戻しましょう。
印鑑がもう一つあります。
この御笠団印より前、明治32年に水城小学校の敷地内で出土したのは遠賀団印でした。
国立博物館の説明によると、
「天平尺で方1寸4分1厘に造られており、公式令で
方2寸と定められた国印よりも小型である」となっています。
天平尺で中途半端な数字なら、別の尺貫を使用した可能性はないでしょうか。
愛読者さん、この辺り、詳しそうだなあ。
印鑑を保管するのは印鑰神社だったり、祠だったりというイメージがあるので、
出土状況が分かればよかったのになあと思いました。
二つの軍団印がほぼ南北の位置から出土しているんですね。
御笠団印は勾配のある山の麓から。
遠賀軍団は古代の川沿いから。
あたかも、大宰府政庁を守るかのように。
出土地を御笠軍団と遠賀軍団の布陣地として考えることはできないのかな
と思いを馳せました。
遠賀軍団といえば、あの熊鰐さんの軍団です。
仲哀天皇と神功皇后の時代、古出雲系の熊鰐は遠賀水軍を取りまとめ、
洞海湾で船を作り、水軍を組織しました。
その拠点は仲宿八幡宮(八幡東区)です。
そして、同じ熊鰐の末裔が祭祀する豊山八幡神社の縁起には
仲哀天皇ののち、推古天皇の時代にも軍団が活躍したことが書かれています。
推古天皇の御代(飛鳥時代)、新羅国が任那に侵入したため、大和朝廷より境部雄麻呂、中臣連国を大将軍とし、神功皇后の故事に倣って洞の海より入港し軍団を整えていたが、にわかに霊鳩が夥しく軍艦に群がって御神託があった。(略)
これは「神功皇后伝承を歩く」の下巻93から引用しました。
この軍団が大宰府の守りに付いたというのですから、懐かしい気分がしました。
遠賀軍団は水軍として、御笠軍団は陸軍として
大宰府の守りを固めていたのではないかと想像が広がりました。
さて、現物は地元では見られませんが、文化ふれあい館に行くと、
二つの団印のレプリカが見られます。
ここから二百メートル北にあります。
車で文化ふれあい館に行って、そこで地図を貰って歩いて行くのが一番いいかも。
地図に切り換えてみてください。
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