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ひもろぎ逍遥

(4)道真と時平が争ったもの


(4)道真と時平が争ったもの


右大臣だった菅原道真は、左大臣の藤原時平の讒言にあって
太宰権帥として筑紫に左遷された。
時に、道真57歳。時平30歳か。

そもそも、二人の争点はなんだったのか。
ウィキペディアには次のように書かれている。
時平と道真との確執については、個人的な嫉妬のみならず、律令制の再建を志向する道真と社会の実情に合わせた政策を採ろうとした時平との政治改革を巡る対立に求める意見がある。

真鍋が二人について書いているので、今日はそれを読んでみたい。

宮内の賢所(かしこどころ)とは、元来は日月星の神を祀っていた。「かしこ」とは観星台、即ち琉球の「ぐすく」から派生した「ごしょ」を平安時代の女官が改めた名である。(略)

賢所には暦の基(もとゐ)となる日月星を祭ることになっていた。今も神社の軒(のき)や廂(ひさし)に三光の流紋を飾るのがこの式例である。

時には三つ丸、時には三つ巴になるが、いずれも主旨は同じであって、延喜式の頃からいろいろ模様更えが藤原時平(871~909)の顔色を気にしながら、あれこれと創案されたと聞く。

藤原氏が太陽神一つに信仰の対象を絞る正朔をえらんだことは藤原道長(966~1027)がその日記に今の七曜を傍注していたことからも推し量ることができる。

藤原氏は太陰神と石位(いわくら)神を遠くした。記紀に出る星晨の神々をことごとく諾冊二神(イザナギ・イザナミ神)の系統に合祀した。もって多くの神々の容色が百姓の心から去っていった。

高木の神もその一柱で、これを高産神(タカミムツミ)に併せた造化三神の一柱なる神産神(かみむつみのかみ)には、高木神なる神名は如何なる創意を考えたか不詳である。

人間が神の存在をあれこれと配置転換した延喜式の挙に対して、真向から対決したのは菅原道真(845~903)であった。

天神地祇を左右する延喜式は、やがて本地垂迹、神仏混淆の弊を招き、ついには人持って自ら神となる。人能く神を作る事を上に倣い、下に常となすことが近世から現代に流行する発端となったのである。

『儺の国の星拾遺』p19

出目・袴着天満宮(久留米市)の所でも、上記の一部を口語訳で紹介したが、
ここでは少し長く引用した。
少しずつ詳読してみよう。

宮内の賢所(かしこどころ)とは、元来は日月星の神を祀っていた。「かしこ」とは観星台、即ち琉球の「ぐすく」から派生した「ごしょ」を平安時代の女官が改めた名である。(略)

賢所には暦の基(もとゐ)となる日月星を祭ることになっていた。今も神社のノキや廂(ひさし)に三光の流紋を飾るのがこの式例である。時には三つ丸、時には三つ巴になるが、いずれも主旨は同じであって、延喜式の頃からいろいろ模様更えが藤原時平(871~909)の顔色を気にしながら、あれこれと創案されたと聞く。

沖縄の「ぐすく」は御城とも書かれているが、その多くは軍事拠点の性格はなく、
聖域説などがあるようだ。

真鍋はそれを「観星台」と伝えている。星とは当然「太陽・月・星」を指す。
そのシンボルが神社に見られる三光紋である。

(4)道真と時平が争ったもの_c0222861_179839.jpg

(高良大社の神宝)

観星台は ぐすく → ごしょ → かしこ と変化した。

だから、宮内の賢所(かしこ)も当然ながら日月星の神を祭っていたという。

暦を決めるための観測は「日月星」の三つが揃って初めて成り立つ。
だから、「太陽神と月神と星神」を本来は祀っていたのが、
時平の時に変化したという。

それが形になったのが「延喜式」だ。


藤原氏は太陰神と石位(いわくら)神を遠くした。記紀に出る星晨の神々をことごとく諾冊二神(イザナギ・イザナミ神)の系統に合祀した。もって多くの神々の容色が百姓の心から去っていった。
石位とは星のことだ。

延喜式はあらゆる神々をイザナギ・イザナギの系統にまとめ上げてしまった。
そのために月の神と星の神々の存在が忘れられる原因となった。

すでに当時、記紀からは月神と星の神は光を消していた。

筑紫の水城で、太陰暦ではなく、新しく太陽暦の鐘を高らかに鳴らしたのは
天智天皇だった。

日本神話に星の神がいないことが私にはずっと謎だった。

真鍋の話から伺えるのは、やはり倭王朝から日本王朝への変化と
月や星の神々が消えていくのは期を一にしているということだ。

その仕上げが延喜式だったのだろう。

人間が神の存在をあれこれと配置転換した延喜式の挙に対して、真向から対決したのは菅原道真(845~903)であった。

それぞれの氏族には歴史があって神々がいた。
しかしその神々は延喜式によって都合よく書き換えられた。
道真はこれに真っ向から対決したというのだ。

この「延喜式」について、ウィキペディアを見ると

延喜式 
成立 905年(延喜5年)、醍醐天皇の命により藤原時平らが編纂を始め、時平の死後は藤原忠平が編纂に当たった。『弘仁式』『貞観式』とその後の式を取捨編集し、927年(延長5年)に完成した。その後改訂を重ね、967年(康保4年)より施行された。

となっている。

道真の左遷は901年で、四年後の905年に勅命が出たということは、
延喜式の計画はかなり早くから提起され、道真は強く反対していたということになる。

高木の神もその一柱で、これを高産神(タカミムツミ)に併せた造化三神の一柱なる神産神(かみむつみのかみ)には、高木神なる神名は如何なる創意を考えたか不詳である。

高皇産霊神(たかみむすび)は宇宙から出現したのち、姿を隠した。
なのに、アマテラスの時代になって、高木神と名を変えて、
アマテラスの参謀のような姿でまつりごとの主体者になっていた。

私は『古事記』を訳しながらこの不自然さに、とても驚いた。
これがずっと謎で、本来は別神ではないかという思いがいまだに捨てきれないでいる。
しかし実態が分からず、ついつい同神として取り扱っている。

真鍋大覚でさえ、高皇産霊尊に高木神という名をつけた意図を測りかねていた。

「延喜式」は神社のランク付けをして、神々を自由に取り扱った。
その思い上がりが、仏と神を混淆していくという、
本来の姿から掛け離れた宗教形態を生み出したと言いたいのだろう。

今、人々が神社に対して御利益を求め、単なるパワースポットになってしまったのも、
真鍋が生きていたら、この延長にあると言うのだろう。

道真が時平との対立に勝っていたら、平成の神社の在り方も違っていたかもしれない。

そして、ここまで書いて思った。
私たち渡来人の集合体が日本人としてまとまった事に、
案外、延喜式は一役買ったのかもしれない。

禍福は、あざなえる縄の如しというではないか。




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Commented by きりん at 2014-12-22 22:16 x
>人間が神の存在をあれこれと配置転換した延喜式の挙に対して、真向から対決したのは菅原道真(845~903)であった。

>天神地祇を左右する延喜式は、やがて本地垂迹、神仏混淆の弊を招き、ついには人持って自ら神となる。人能く神を作る事を上に倣い、下に常となすことが近世から現代に流行する発端となったのである。


延喜式の挙に反対した菅原道真公が、皇族以外で史上初めて、人から神になったというのも皮肉なものですね。
道真公は大自在天神で、シバ神と習合しています。

Commented by lunabura at 2014-12-22 22:51
道真が想像と破壊の神と習合するとしたら、当時の人にとって強烈な存在だったんですね。
by lunabura | 2014-12-21 17:17 | (タ行)神社 | Comments(2)

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