2015年 01月 02日
安曇族・膳部とは天文観測補佐官だった
安曇族
膳部とは天文観測補佐官だった
安曇族の話に戻りましょう。
志賀海神社の遥拝所から見えるのは日の出。
そして夜になれば星の出が見られます。
星と星の間の距離をどうやって測って、どう表現するのでしょうか。
専門家の真鍋大覚はこう伝えていました。
掌の形を楓(かえで)に見立てる。「かしわて」の略である。
膳部(かしわて)とは皇太子のもとで天文観測を補佐する官階であった。その名の如く、つねに客星彗星の位置を「かしわて」で測るところから、倭人が名付けた職名であった。
後に天神に五穀豊穣を感謝し、その供物膳部を申餔(しんぽ)の刻、即ち日ざしが最も強く、空が最も明るい時にささげる祇官もかねることが多く、やがては宮中の日夜の食を調達することになった。
星と星の間は手を広げて測るんですね。
カエデ即ちカシワテとは本来「皇太子のもとで天文観測を補佐する官階」だったと
真鍋は伝えています。
本来、天文観測をして、天上の神々に供物を捧げて祀っていたのが、
皇太子の食事にも携わるようになったようです。
ですから、安曇族が膳部であったということは天文観測をしていたということになります。
さて、同じ「膳」がつく気になる神社があります。
それは香椎宮の不老水の近くの高倍(こうべ)神社。
武内屋敷の近くにあります。
その石碑に
「祭神 香椎武内家始祖 香椎廟廟司 大膳紀宿禰氏連命」
と書いてあります。
武内宿禰の陣営の特徴として、本宮から少し離れた所に張るパターンが見られます。
例えば久山の斎宮に対して黒殿神社。
仲宿八幡宮に対して旗頭神社。などなど。
この香椎宮もやはり少し離れて陣営を張っていたようです。
そして、不老水で食事を作っていた。
「大膳」という字に注目すると、守りの陣営と食事だけでなく、
天文祭祀も司っていた可能性が出てきました。
そう、香椎宮の古宮ではスピカを祀っていたのですから。
橿日宮(かしいぐう)の社伝によれば、“かし”とはスピカの古語で、春分秋分の象徴としてこれを祀る祠が古宮、即ち日振宮(ひふりのみや)であった。(真鍋大覚『灘の国の星 拾遺』)
あのエリアの狭さこそ、天文観測所の特色です。
仲哀天皇はわずか一年しか居られなかったけど、きっとあの場で祭祀をした事でしょう。
そのそばには神功皇后が、また竹内宿禰が控えて、
国の安泰と戦いの勝利を願ったことでしょう。
香椎宮はその後、仲哀天皇の廟となりましたが、
太宰府には香椎宮別殿が設置されて、
八百万の異邦人の航海日誌を対照する事務所として機能していたといいます。
太宰府に赴任する長官が必ず挨拶に来たという香椎宮。
ここには天文観測という、国を支える重大な機関が継続していたかも知れませんね。
香椎宮古宮はこのブログを書き始めたキッカケの宮なので、
思いがけず話題がここに戻り、感慨ひとしおです。
次は、いただいたコメントの一部です。
木下祝夫氏は先代の宮司で一族になります。
当家は香椎宮近くに末社があります。
高倍(こうべ)神社と言います。そこに武内宿禰の始祖と表記してあります。
香椎宮の守りの兵隊(宮司)で発祥の地は片男佐と聞いています。
後に領地分けで香椎、唐の原、和白、奈多に分散しています。
疑問点があるのです、もともと片男佐周辺に住んでいて和白(新宮)の阿曇族と共に大和朝廷に従ったのか、それとも、朝廷と共に香椎に着たのか知りたいのです。
阿曇磯良と武内宿禰と神功皇后の関係。
武内宿禰とは何、ロマンがあるような気がします。
ラスト前一行。
「阿曇磯良と武内宿禰と神功皇后の関係」
今、この三者が倭国の歴史を刻んだ重要人物だと分かり、
このコメントの凄さに気付かされます。
この三人を実在しないという事にしてしまった学者(?)や研究者の意図は
何なのでしょうか。
単にフィールドワーク不足で論を立てた?
それだと、いけませんね。
この時代、まだ大和朝廷というものは存在せず、
豊浦朝廷あるいは香椎朝廷と言えるものが存在していました。
香椎宮は想像以上に重要な位置づけがあるのです。
真実が蘇ろうとしている。
今、そのお手伝いをしているんだな、と時々思ったりする、るなでした。
香椎宮 古宮
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私も高部神社のことが知りたかったです。
るなさん、ありがとうございます(^-^)/
お役に立てて良かったです。^^
画像が×になってますね。クリックすれば見ることができます。
安曇族は広範囲に活動したこと、また古い時代からの名家だったことから、無限に話が飛び出してきます。
いったん、まとめに入る予定です。コメントのお蔭で踏み出せそうです^^