2019年 01月 20日
「くまもと」とは観星台
「くまもと」とは観星台
京都の門の開閉時間の基準は熊本にあった
今日は「くまもと」という言葉が星の観測に関連ある言葉だという一文を
見つけたので、書き写します。
例の眞鍋大覺です。囲みの中はスルーして大丈夫です。
<天官は終夜の観測と事としていた。全天を隈なく見わたすところから、察するに宣命暦が公布された清和帝貞観3(861)年あたりの古語かと思われるが、観星台のことを隈本とよんでいた。
「くま」はただちに近東の神話に出てくる斗極の熊の物語を思い浮べるのであるが、祖先は宇宙空間を九間(くま)と書いていた。
「くまもと」とは「くまのむち」即ち、天文観測の長者達人を言い、又「くまのまる」即ち天文台観星台の略でもあったかと思われる。
九間とは八方と玄天、即ち八方の中心なる北辰の座のことであった。
韓愈(かんゆ)(786~824)の作詩の一節に
一封朝(あした)に奏す 九重の天
夕に潮陽に貶(へん)せらるる路八千
は、まさに九間の言葉をよく表現している。
天官は星座をすべて暗誦して星位のみならず、新星の発見と動向には細心の注意をおこたることがなかった。「歳月人を待たず」の諺そのもののごとく、一寸の光陰に時のたつを賭けて一生を果したのであった。>
『儺の国の星拾遺』p173
<全天は水平線から天頂までが九尺となり、これが唐代(618~975)の詩文に出る九重天(きゅうちょうてん)の由来となる。>
『儺の国の星拾遺』p70 58磯城星 ヘルクレス座α(64)ラス アルゲーチ
今回注目したい内容をまとめましょう。
天官は一晩中星の観測をしていたのですが、
全天を「隈」なく観測していたことから、観星台を「隈本」と呼びました。
その「くま」とは「九間」と書きます。
北極星を中心に八方を描き、北極星+八方=九間と捉えていました。
また「九重の天」とは全天を水平線から天頂までを九尺としたということです。
地球儀に緯度と経度のラインを引きますが、
宇宙空間の場合は、北極星を中心として縦と横のラインと、
天頂を中心としたラインを想定していたわけですね。
それが「九間」と「九重」という言葉の由来だということになります。
「くまもと」とは天文観測の長者達人を言い、
「くまのまる」とは天文観星台の略ではないかと真鍋は言います。
「まる」って星の意味ですもんね。
「くま」の語源は普通、道や川の曲がりくねって入り組んだ所としますが、
これと合致しない地形もあり、
新たに天文観測所のあった地形を考慮すると上手く地名が説明できるかもしれません。
それにしても、クマモトとか、九重とか、熊本の地名と重なりますよね。
そこで思い出したのが、2014年の久留米大学公開講座での福山裕夫氏の発表です。
メモしかないのですが、
京都の門の開閉時刻は日の出と日の入に合わせられているのですが、
実際の時刻を調べたところ、京都の日の出日の入の時刻とは合っていないそうです。
これは、他の所で観測した日の出日の入の時刻を採用しているということになります。
そこで、基準となる緯度経度を調べると、
「熊本の玉名」付近辺りの観測値が当てはまるというのです。
その地に天文観測官がいて、正確な観測をしていたということになります。
そして、そのデータを京都では利用していたのです。
熊本に「隈本」がいた ( ´艸`)
絞り込むと玉名にいた。
神社とか丹念に調べていくと、天文観測所が見つかるかも知れませんね。
地名とか、地形とかが手掛かりです。
この近辺には安曇が入植したという話があります。
志賀海神社の遥拝所とか、香椎宮の古宮を把握して
安曇族の膳部の観測基準が明確になれば、
玉名との比較も可能になりますね。
ということで、追跡調査はTatsuさんに期待したいと思います。^^
(あいかわらず注文の多いブログです)

玉名大神宮
ここには景行天皇がやって来た
<20150109>
なるほど「観星台」ですか。後漢の漢字字典の「示すへん」の解説に「天は象を垂れて吉凶をあらわす 人に示す所以なり」とあります。観星台とは天体観測と同時に神の意思を伺う、城域において最も重要な場所だったのでしょう。
熊本城は茶臼山(この山名も謎)を利用して築かれ、天守閣がある所には「観音堂」が描かれた絵図が残っています。ここが観星台だったから隈本、納得できますね。そういえば、清正公の後の城主細川家は星紋の九曜紋。偶然でしょうか必然でしょうか。
この観星台隈本説は熊本市西区河内町にある謎の巨石群「拝ヶ石」を考える上でも重要な手がかりになりそうです。そうかぁ~、くまモンの正体は熊モンではなく隈モンだったのか…
千葉というのも、真鍋の本に載っていました。
何だったか記憶にないので、注意しておきます。
拝ケ石も、天文全体から見ると新しい発見がありそうですね。
いつも、画像ありがとうございます^^
「追跡調査はTatsuに期待」とのお言葉を受けて、なんかやっとこうという消極的積極主義で、とりあえず志賀海神社と関係深そうな宝満山は拝ヶ石山から見えるのかを電子地図で試しましたら、なんと思いもよらぬ結果で、楯崎から眺める60km離れた沖ノ島のように、平坦な山並みに宝満山・元宝満山・頭巾山・三郡山が連なる山塊が浮かんでいるように見えました。宝満山までは約78km。
逆に宝満山から拝ヶ石山はどうかと見ると、これまた拝ヶ石山と一ノ岳(金峰山)・二ノ岳(熊野岳)・三ノ岳(那智岳)が二上山或いは三上山といった佇まいで並んでいました。このように見えることは稀だろうと思いながらもこの風景を古代人が放っておくはずはないと眺めているところへ某神社の宮司氏より電話。用件が済んだところで、おもむろにこの話をすると、
「それは修験つながりがあるね。それにシュゲンはシカの転訛と思うんです。」
「シカですか?でもシュゲンもいい漢字してますよね。」
「それが頭のいいやつが、直ぐには判らないようにしてるんです。」云々のやりとり。
なんだか無理やり志賀島を熊本へ引っぱって来たようですが、よたよたと追跡調査はスタートしたのであります。
ホント、浮んでいるように見えますね。
宝満山からは阿蘇山の噴煙を目視しました。
雲仙岳の噴煙も見えました。
とても驚いたのですが、渡半島から沖ノ島があれほど近くに見えたので、78キロも問題ないでしょう。
相島で聞いた話ですが、年に数回、陸地がとても近くに見える時があるということでしたので、
確かに「古代人はほっておかない」でしょうね。








