2015年 01月 11日
消された王 安曇磯良
消された王 安曇磯良
今日は志賀島で「安曇磯良と神功皇后」の二回目の講座をしました。
何度も来てくださっている方々。
地元の方。
あるいは遠く神奈川から来て下さった方。
沢山の方々に話を聞いていただきました。
ありがとうございます。
この話をいただいた時、「安曇」がつくなら何でもいいということで、
とっさに安曇磯良を思いついたのですが、神功皇后伝承を交響曲に例えると、
低音部にずっと流れる干珠満珠のモチーフの主体者が安曇磯良でした。
皇后に玉を授けた「玉垂命」です。
大川の風浪宮や北九州の和布刈神社では磯良はその名前で祀られていますが、
大善寺玉垂宮や高良玉垂宮・高良下宮社では「高良玉垂命」と名を替えて祀られています。
春日大社
『古事記』にも『日本書紀』にもその名が書かれず、
倭国の中枢地区では名前を伏せている。
そこに、古代史の謎を解く手がかりが隠されています。
私の中では多くのミッシングリングが繋がりました。
これを文章化するのが一つの目標ですが、それはボチボチとやります。
その前に、今、夢中になっている、真鍋の記述の分類をしようと思っています。
あちこちに分散している文を繋げてみて初めて分かる壮大なタペストリー。
ここにも、多くのヒントがあります。
例えば、天の御中主が高良と呼ばれた理由とか。
実は、これはブログにはすでに書いてはいるんですが、
今日の話をしながら、私の心の中でしっかりと形を得ました。
沖津島の祭神は天の御中主神だということが総てを物語っています。
こういうことを、きちんと文章化して説明出来るようになりたいと思います。
参加できなかった方にも伝えられるように。
ということで、これからも当ブログに遊びに来てくださいね。
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昨日は胸がスカッ!とするお話をありがとうございましたm(_ _)m。
お水取りの日で、公民館は方位が悪かったのでギリギリ吉方位の志賀海神社で直前までダラダラしてました。志賀島センターが無くなってたのがショックです〜( ;∀;)。海鮮丼が大好きだったので、とても残念です。
船で行くと、いつもセンターの裏口で残り物にあやかろうとするにゃんこ達が居るんですが、船で渡って来た人達に食べ物をねだってました。
私が志賀海神社に初めて行った記憶は2、3歳の頃で、春と秋の山の神のお祭りの時です。当時、そこにはご年配の祈祷師のような女性がいらして、山の神の前にレジャーシートを何枚も広げ、来た人達は空財布の口を開けて(当時はがま口財布が主流)、財が貯まるよう祈ってもらっていました。
うちの町内の婦人会や老人会も大型貸切バスで乗り付け、財布を預け祈ってもらう間、志賀島内の旅館などで海鮮をいただくという一大イベントでした。
境内の万葉碑の『皇神』は、私もずっと気になっていて、このお話が聞けて良かったです(*^_^*)。
余談ですが、中国、関東、甲信越、北陸の人は、お潮井の風習を知りませんでした。写真を見せたり実際に来てもらったりした時に、「この砂は何?」と聞かれます。最近では地元の神社でもお潮井盤にお潮井が入ってないところもあり、謎のオブジェとなるのではないかと心配しています。小山田斎宮のお潮井盤は三角でした。こうした風習も、なんとか残し伝えたいですね。
山の神の話、昔はそうだったんですね!
お潮井は私も玄界灘付近のお宮を回るようになって知りました。
確かに、オブジェになっている所、在り、ですね。
それにしても、Nさんのお宅に掛け軸があるのですか?
宮地嶽神社は本殿の火災のため、古資料が失われているようなのです。
よかったら、私も拝見したいです。
今度会ったら尋ねてみます^^