2015年 01月 13日
「阿知女作法」と磯良のつながり
「阿知女作法」と磯良のつながり
志賀島での質問に、「阿知女作法」に関するものがありました。
まずは、阿知女作法について、Wikipediaを見て見ましょう。
阿知女作法(あちめのわざ、あちめわざ、あちめさほう、あじめのさほう、等々)とは、宮中 及び神社等で歌われる神楽歌の一つ。本来は、神の降臨を喜び、神聖な雰囲気を作るためと思われる一種の呪文。
あ~ち~め―(一度)、お~お~お―(三度)、お~けー(一度)のフレーズを阿知女作法と呼び、これが2組(本方・末方)に分かれて唱和される。
神楽歌は、庭燎(にわび:夜の準備)、採物(とりもの:神迎え)、前張(さいばり:神祭り)、明星(あかぼし:神送り)の段階に大きく分けられるが、阿知女作法で有名なものは庭燎の後に、また、採物、前張 等でもフレーズを変えて繰り返される。鎮魂祭の歌(下記)にも使用される。
平安中期には儀礼として完成していた。延喜末年頃に譜の統一が行われている。
これは検索すると動画で、神楽演奏を視聴することができます。
詞は「あちめ」「お~」だけの神楽ですが、
神秘的で遠い世界に呼ばれるような趣の演奏です。
Wikipediaでは、「あちめ」=「安曇磯良」説を紹介しています。
「あちめ」とは、男神と考えられている安曇磯良を指すといわれ、「お~お~お―」とは、安曇磯良が返答している声との説(太平記等)がある。しかし、後世に当て字したものだろうか、「阿知女」と、「女」の漢字がついており、詳細は不明である。また、「うずめ」の転訛との説もある(愚案抄)。「あづみ」という言葉は次のようにさまざまに変化しています。
アヅミ
アドべ
アドン
アントン(アンドン)
アド
アジム
アヅマ
アヅチ
アツミ
アヅサ
「あちめ」もその一つと考えられます。
また、「うずめ」と解釈するのも、連想できるものがあります。
それは、志賀島に、磯良だけが「アメノウズメの舞」を舞えたという伝承が
あるからです。
これは、神功皇后が志賀島の勝馬まで出かけた時の話です。
神功皇后が側近を連れて、志賀島の北端まで行ったのは、
安曇の祖神即ち皇神たちに参詣するためでした。
ところが、肝心の磯良が来なかったのです。
それでも天の岩戸の神楽を奏上しようとすると、
アメノウズメの舞を知る者がいませんでした。
「磯良なら知っている、演奏していれば必ずやって来る」という話になり、
磯良抜きで神楽を奏上していると、
やはり、志賀の皇神(磯良)が金の亀に乗って舞いながら登場したという話です。
ですから、磯良の舞う神楽にはウズメの舞が含まれているのです。

(その現場・志賀島大戸小戸)
さて、紹介した話の中で磯良を「志賀の皇神」(すめかみ)と表現しています。
「皇」は皇統にしか使えない文字なので、安曇族の立場を考えるのに大事な表記です。
何故、「皇」が許されるのか。
それは安曇族が神武天皇の祖先に当たるからです。
そう、神武天皇の母・玉依姫は安曇の姫なのですから。
さて、話を戻しましょう。
質問は、阿知女作法の「阿知女」が磯良を指すなら、
何故、宮廷に伝わるのかという内容だったかと思います。
この時、自分がどう返事したのか、記憶が曖昧なのですが、
一つは傀儡舞で磯良が登場する時にも祝詞が挙げられているという話をしました。
磯良と祝詞には切っても切れない深い関わりがあることを示しています。
また、志賀島が禊に厳しい島だったことも手掛かりです。
それはイザナギが黄泉の国から戻って勝馬(志賀島)の小戸で禊をして
神々が生まれたことから、禊に厳しい島なのです。
ここは神話の始まりの地なのです。
神話の始まりの神、天御中主神は沖津島に祀られています。
これらは安曇族が神道の始まりに深くかかわっているということを暗示しています。
宮廷の祭事に安曇族の神楽が残っていても、それほど不思議ではありません。
こんな話をしたかな。(つもり)
で、真鍋大覚(だいかく)を昨夜も見ていると、タイミング良く、
安曇族が船を出す時の宣言(のりと)の話が出てきました。
今日はそれを引用します。
その前に。
「あへ」とは「北」です。
「胡人」とは「中近東付近から渡来してきた人」です。
「七つ星」は北にある星、即ち「北斗七星」と解釈して読んでみてください。
胡人は「N.T.V」の三音はよく紛れていましたから、「ななつのほし」は素直に「わたつみのほし」になりました。海を渡る舟人に七星は目をそらすことの出来ぬ存在でありました。
「わたつみのほし」を略したものか阿曇(安積)星の名がありました。「あへのかたのよみのほし」、即ち北位を看取る星の意を舟人が短くまとめた名かとも考えられます。安住なる氏族は舟人として上古に知られた家系でありまして、北辰を氏神として祈ってきました。
その子孫は後に倭寇となりますが、元寇の後は日蓮(1222~1282)の宗教に吸収されて維新の後までも西海の重鎮たる一代勢力を維持しました。
察するに前述の長い名は、倭人が海北道即ち玄界灘に舟を出す時の宣言(のりと)の一節にあった句かと思われます。
現在の神官の読み挙げる祝詞は、延喜式更に千年後にこれを統一した内務省神社局が、型に嵌めたものでありまして、昔はもっとのびのびとしたおほらかな大和言葉が氏族伝来の調子で語られていたと香椎宮司木下祝夫(1894~1980)が述べておられます。
『儺の国の星』p60
今回、注目する一文は
「察するに前述の長い名は、倭人が海北道即ち玄界灘に舟を出す時の宣言(のりと)の一節にあった句かと思われます。」
です。
安曇族が玄界灘に舟を漕ぎ出す前に、
祈りの言葉を捧げていたことがこれで分かります。
北の星々に祈ったわけですね。
同じ安曇族の風浪宮では「火清鳴弦御祈祷」(ひきめんごきとう)といって、
船出の前に弓を鳴らして魔を祓います。
安曇族と天皇家との関わりを考えると、
神武天皇が安曇の姫・玉依姫から生まれているので、
神武東征のとき、船を提供したのは母方の安曇族以外には考えられません。
神武天皇は北部九州の各地に姿を現していますが、
移動手段は安曇族の船だったはずです。
安曇族は出航するたびに祝詞を捧げ、弓を鳴らして魔を祓っていた。
これを神武天皇は毎回見ていたはずで、
これらの儀式が宮廷に伝わるのも自然な流れだと思いました。
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沖津宮になぜ、天御中主神がまつられているのか、ずっと気になっていましたが納得しました。星信仰が確かに息づいていたのですね。今では、あまり重要視されてないようですが。
あちめ作法、現代によみがえると、嬉しいですね。
「志賀高穴穂の宮」の話、ワクワクします。数年前、沖津宮前の砂浜で、勝馬の地元古老から志賀島には金印に匹敵もしくはそれ以上の宝が眠っていると、聴いたことがありました。何かみつかるといいな~なんて・・歴史ロマンは楽しいです。









