2015年 03月 24日
佐賀東部の神社と古墳巡り(1)
佐賀東部の神社と古墳巡り(1)
竹内宿禰は「紀」の武内宿禰とも書かれています。「紀」は和歌山の紀伊を指すのではなく「木・基肆」で、肥前の地名だろうと考えています。
もちろん紀伊の方には徐福の縁で竹内宿禰の拠点もあるだろうけど、出生に関わる地は肥前の方だろうという意味です。
その基肆(きい)をようやく訪れることが出来ました。
いえ、正確には何度も訪れているのですが、古代の探訪を目的とするのは初めてです。ですから全く別世界に来てしまったようで地理が混乱しています。
もともと方向音痴なので、今回は地図に訪問先を落とすことから始めようとしましたが、家にある地図では適当なのがなかったので昭文社の道路地図を購入しました。
養父町(やぶまち)の地名が見えます。基肆郡と養父郡の境目はどこでしょうか。綾部八幡神社はどの郡に当たるのでしょうか。ネットを調べましたが、よく分かりません。
訪問したのは鳥栖市と三養基郡みやき町、神埼郡吉野ヶ里町です。
今回は古代の地名をシリーズ名につけたかったので、とりあえず「
※分かりやすく「佐賀東部の神社と古墳巡り」に変えました。
さて、今回は神社と古墳を付き合わせながら、古代の氏族を見つけられないかという試みが目標です。神社の神宝と古墳の埋納物が共通することから、古墳の被葬者の近くの神社はその氏神だろうという考えを持っています。
氏族は祭神と地名を持って入植する、と言った方が簡単かな。
さて、「鳥栖市・基山・みやき・上峰町」の地図で神社をざっと拾うと、天満と老松が広く分布しているのが分かります。道真公を祭祀する冶金集団が多いのではないかという印象でした。
その中で姫古曾神社、千栗八幡宮、物部神社、綾部八幡神社が個性的な名を持っています。
姫方の姫古曾神社はかつて夢に出て来て探して行った宮だったので、印象深いのですが、当ブログでは再訪しようとして小郡の方に行きついてしまった思い出があります。そして再訪を果さぬうちに、昨年焼失してしまいました。もう再建されたでしょうか。
今回、御縁があったのは綾部八幡神社でした。これが基肆郡なのか、養父郡なのか、分かりません。
もう一つ、吉野ヶ里にある田手神社も参拝しました。祭神があの向津媛で、天智天皇の祭祀によるものなので注目していました。
向津媛。アマテラスとも瀬織津媛とも言われますが、新羅戦に掛かる前に仲哀天皇に悲劇をもたらしました。同様に筑紫で崩御した斉明天皇の悲劇が重ねられているようで、気になっていたのです。
今回案内して下さったのは「山歩き古墳巡り」の筑後国造さんです。装飾古墳のスペシャリストです。その筑後国造さんと神社好きの、るなの組み合わせで古代へのアプローチです
^^
古墳に関しては専門用語の知識がないので、間違っていたらコメントをお願いします。訂正しながら書き進めたいと思います。

田代太田古墳
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鳥栖は道真公の縁の地なんですよ。市内には菅公姿見の池(http://www.kotodazaifu.net/i023/diary.cgi?no=98)等も有ります。近くには子孫の方もいらっしゃいますよ。
今、弥生が丘の南、平原遺跡から南200mの所に神社を見つけたのですが、何という神社が御存知ですか?また祭神が分かりますか?
もう一つ、田代太田古墳の東500mにも神社があります。これらが分かる資料があれば、よろしかったら教えてください。
平原遺跡から南200mの所に神社は、小高い山のですか?
それでしたら愛宕神社じゃないかと思います。
その他は、申し訳ありませんが、詳しくは分かりません。
お力になれずに、すみません。
いつも楽しみに拝見させていただいています。
神社や古墳、地域の伝承などに興味があり、とても興味深く読ませていただいています。
今回、私の地元の鳥栖のことを書いて下さるということで、ますます楽しみです。
確かに鳥栖には天満宮や老松宮が多いですよね。
同級生に子孫がいましたw
仲哀天皇のゆかりの地もありますし・・・
今後も更新楽しみにしています!
先ほどの私のコメント、仲哀天皇ではなく景行天皇の誤りでした。申し訳ありません…。
田代太田古墳を挟んで東側に永吉町というところがあり、そこに永世神社があります。
その神社に景行天皇の伝承があるのです。
昔、図書館で調べたのですが、今は手元に資料がないので、このことが書いてあるHPのリンクを貼っておきます。
http://5.pro.tok2.com/~tetsuyosie/saga/tosusi/nagayo/nagayo.html
麓の平原古墳は消滅しています。
古賀町の宮地嶽神社は、塩塚古墳の上。祠だけですが・・・
調べていて、消滅がひどく、まだショックの只中です。
かつて於保里には標高50mほどの小山があったといいます。
古代にはこの小山の山頂で太陽の軌道観測が行われていたと思われます。
なぜなら真東にV字型に連なる山脈が合わさる20㎞程東の筑後川の谷間から春分と秋分の日の太陽が昇るのを観測できるからです。
観測技術が未発達な古代に於いては年1回の冬至や夏至より年2回観測できる春分・秋分の日の軌道観測が重要視されたのではないでしょうか。
農業に於いてもこれらの日を基準にした方が都合がよいはずです。
平野全体の農業の日程を決める重要な場所於保里
そして、この場所を守護する神社として千栗八幡宮が創建されたのではとないか?
かつて於保里の集落では毎朝千栗八幡で汲んだ水を玄関先で笹の葉で三回撒くという神水(シュエ)という風習があったそうです。
そして於保里は明治時代の地図では「おーり」と表記されています。
飛躍ですが、ひょっとして九州の王権発祥の地かもしれません。
肥前国の東の端に肥前一宮がある理由も説明できそうです。
筑紫平野の中心だからこそここに一宮があるのではないかと。









