2015年 03月 26日
(2)田代太田古墳・なんと美しい装飾古墳なのだ
田代太田古墳
なんと美しい装飾古墳なのだ
鳥栖市にある田代太田古墳。
前回、その衝撃的な装飾復元図を紹介しましたが、この壁画の存在を知ってからずっと現場を見たいと思っていました。年に一度程度しか公開されないので看板だけでも見たかったのです。

これは日下八光(1899~1996)の復元模写です。
何という世界観か…。
説明板の写真ではありますが、初めて現地でゆっくりと見ることが出来ました。一つ一つの文様には見覚えがあるのですが、いったい何を伝えたいのでしょうか。
ここは個人の公開日記ですから、自由に思いを書いてみましょう。ただの個人の思いです。備忘のためのものです。^^
被葬者はどれか?
それは横たわっている人物。
一番上の人物は赤いオーラをまとっている。また右にいる顔の白い赤い円の人物も赤いオーラだ。二人の手の振り方から推測すると巫女ではないか。
死者の御魂を天に向かう天鳥船に導く儀式を行っている情景だ。
右下に靫(ゆぎ)が並んでいる。王塚古墳ではそれは主体的な位置にあった。やはり装飾文は氏族を象徴しているのではないか。
黒い渦巻は蕨手文(わらびてもん)というそうだ。蕨手文と同じ大きさで同心円文が描かれている。その二つを見守るように双脚同心円文が並ぶ。靫文もこれを見守っているかのようだ。
中央では同心円文と蕨手文が寄り添っている。そしてさらに左を見ると上下に描かれている。
この横一列の画像には一つのストーリーがある。

左右、どちらから読んだらよいか。それは馬の向きが教えている。右から左へと読むのだ。
赤い馬には赤い人物が乗っている。まるで幽霊のようにはかなげだ。しかし赤い色ということから、女性を表しているのではないかと思った。
左部には双脚同心円文も靫文もない。船だけだ。
これらをつないで右から読むとこんなストーリーが生まれた。
同心円文族と蕨手族という対立する豪族がいた。それは二大勢力だ。双脚同心円文族、靫族なども加わっての話し合いで、二大勢力の対立を緩和する話し合いがなされた。
その結果、縁組が提案され、蕨手族から姫が馬に乗って嫁ぐことになった。

中央の二つの文はこの縁組が功を奏し、両族は友好関係を築いたことを表す。
船は同心円文族が水軍、船運で繁栄するようすを表す。まさにここに古有明海が湾入していた頃の話だ。
一番左にある二つの文が上下に描かれているのは、当地は同心円文族が主体、すなわち治めていることを示す。その右肩の花文と言われる小さな八つの円文はその子供たちではないか。
靫が王塚古墳に死者を悼むように並んで描かれていたことを思い起こすと、靫族は飯塚市を拠点とする王族か。蕨手文族もまたその近隣か。
対立していた二大豪族とは鳥栖の豪族と遠賀川流域の豪族で、遠賀川流域から姫を差し出すことで両族の和解が図られて、それは上手く行った。
そして、姫が先に亡くなったことが、この古墳の造営のきっかけとなった。
以上、るな探偵の妄想コーナーでした (-。-)y-゜゜゜
顔料を持っている部族は大変裕福な部族です。王塚古墳を描いた技術者集団を伴っての輿入れだったのではないでしょうか。
この古墳には部屋が三つもあり、この壁画が描かれた最奥の部屋には死床が複数あるので、王族一家が追葬されるようになっていたのでしょう。
時代背景
さて、この古墳の成立時期は6世紀後半とされています。
筑紫の君磐井の乱527年。その後、葛子が弔い合戦を行って筑紫の君となっている時代か、あるいは次の勝村勝頼の時代でしょう。
この古墳は円墳ですが、宮地嶽古墳とサイズや外観の雰囲気がよく似ています。勝村勝頼が祀られている宮地嶽古墳は7世紀前半とされています。

関連する古墳の年代は次の通りです。
6世紀中頃 王塚古墳 飯塚市
6世紀後半 田代太田古墳 鳥栖市
7世紀前半 宮地嶽古墳 福津市
です。
この古墳が出来た時代には、筑紫の君・磐井を滅ぼした継体天皇も物部麁鹿火(あらかひ)ももういません。次の世代です。
この基肆郡では何が起こっていたのでしょうか。
6世紀になると鳥栖市域ではこれまでと違って大型古墳が次々に造られるようになりました。
鳥栖市教育委員会の「とすの文化財解説シート 6世紀代の大型古墳」には次のように書かれています。
これらの古墳が成立した背景には筑紫国造磐井の乱(527年)の影響が考えられ、乱後、九州に物部氏の部民(べのたみ)が設定された際、物部氏に関係のある鳥取部(ととりべ)(鳥飼部)が基肆郡内に認められることから、その母体となる有力豪族の墓ではないかとおもわれます。
とあります。
物部氏が関連していました。
るな的な壁画の解読は、佐賀東部の豪族と遠賀川上流域の豪族の通婚の歴史が描かれているというものですから、同心円文族とは物部氏ということになります。
思いがけない結論です (^_^;)
とりあえず、思考途中のメモ書きです。
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中学在校時代に九州横断自動車道の基礎工事が始まり、実に夥しい弥生時代の遺跡が姿を現しました。
太田古墳裏手の安永田遺跡からは、無数の青銅器鋳造炉跡が見つかりました。邪視紋付福田式銅鐸鋳型も、出土しています。
杓子が峰を祭祀したと思われる大型祭祀遺跡や、環濠集落跡、大規模甕棺墓群も見つかっており、弥生初期から中期にかけての吉野ヶ里遺跡に匹敵する、渡来系氏族の一大拠点が、かつてここに存在していたことを示します。
毎回興味あるブログをじっくり読ませて頂いております。
田代太田古墳・王塚古墳(あとは熊本の釜尾古墳・横山古墳)に描かれております、双脚輪状文は個人的には「彗星」(もしかするとハレー彗星)なのではないかと思っております。
古代の日本は星を見て方角を定めていたと思うのですが、突如現れた彗星に驚き(吉兆か凶兆どちらかは分かりませんが)何か天の知らせでは?と思い夜の世界である石室に描いたのではと推測しております。
田代太田古墳・弘化谷古墳(いずれも双脚輪状文様として捉えないケースもあり)と遠く離れた王塚古墳、熊本の横山古墳、釜尾古墳、これらの墓の主は一体どのような関係だったのでしょうね…。
双脚輪状文様、ご意見ありがとうございます。
お尋ねの熊本、飯塚、佐賀となると、百済の南部に前方後円墳を築いた武人たしの出身地と重なるなあ、と思いました。
この連合軍が軍を派遣した母体ではないでしょうか。









