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ひもろぎ逍遥

(6)肥前国風土記的ガイド・媛社(ひめこそ)の鄕 「荒ぶる神」とは?

佐賀県東部

(6)肥前国風土記的ガイド

媛社(ひめこそ)の鄕 「荒ぶる神」とは?


3酒殿の泉
9月には白く濁って飲めなくなり、春正月になれば清くなって飲むことができる。



4姫社(ひめこそ)の鄕
これについて触れずに基肆国を去る事はできないようです。
小郡の媛社神社で紹介した内容ですが、もう一度全文を書きます。

媛社の郷
この郷の中に川がある。名を山道(やまぢ)川という。その源は郡の北の山から出て、南に流れて御井の大川と出会っている。

昔、この川の西に荒ぶる神がいて、路行く人の多くが殺害され、死ぬ者が半分、死を逃れる者が半分という具合であった。

そこでこの神がどうして祟るのかそのわけを占って尋ねると、その卜占のしめすところでは、「筑前の国宗像の郡の人珂是古(かぜこ)にわが社を祭らせよ。もしこの願いがかなえられたら凶暴な心はおこすまい。」とあった。

そこで珂是古という人を探し出して神の社を祭らせると、珂是古はやがて幡(凧)を手に捧げもって祈り、
「まごころから私の祭祀を必要とされているのなら、この幡は風のまにまに飛んで行って、私を求めている神のもとに落ちよ」といい、そこでただちに幡を高くあげて風のまにまに放してやった。

するとその幡は飛んで行き、御原の郡の媛社の杜に落ち、ふたたび飛んで還って来て、この山道川の付近の田の村に落ちた。

珂是古はこれによっておのずから荒ぶる神の(本居とこの郷での)おいでになる場所を知った。

その夜の夢に、臥機(くつびき)と絡垜(たたり)が舞をしながら出て来て珂是古を押えてうなされた。そこでまたこの荒ぶる神が女神であると知り、さっそく社を建てて祭った。それから後には路行く人も殺されなくなった。
そういうわけで、杜を姫社といい、いまは郷の名となった。 (吉野裕訳)


これを書いた小郡市の媛社神社(棚機神社)での過去記事を読み返しました。
その時の私は、珂是古が宗像郡なので、宗像に本当に織物文化の伝承があるのかどうか調べに行っていました。

そこで、見つけたのが織幡神社と縫殿神社でした。当時は織物先進文化の存在に気付いただけですが、今では秦氏の入植地と考えています。

当時の私の結論は珂是古が祭祀者であり、宗像から技術者を連れて来たのではないか、というものでした。
今読み返すと、数年前に考えたことなので、人の意見を読解するような趣でした。

この媛社(ひめこそ)神社の祭神は姫社神と織姫神となっています。「磐船神社・棚機神社」の鳥居もあるので物部氏の関連が考えられました。

珂是古は原因の神の居場所を旗で占いました。すると、旗は小郡の媛社神社に落ち、再び山道川の方に戻ってきたことから、祭祀せねばならない「荒ぶる神」は小郡の神だと理解します。



さて、この話。真鍋が何度か書いていました。難解なのですが、分かった部分だけまとめてみます。

荒ぶる神
真鍋によると「荒ぶる神」とは諏訪星すなわち「カノープス星」だと言います。南の空低く現れる星です。これが現れるとナイルが氾濫したといいます。

そこで「カノープス」は「荒ぶる神」とされ、須佐男神として恐れられました。

これを前提として次の文を解釈しましょう。
「昔、この川の西に荒ぶる神がいて、路行く人の多くが殺害され、死ぬ者が半分、死を逃れる者が半分という具合であった。」
これはカノープスが現れる季節になると、山道川が氾濫し多くの死者が出たということになります。


ひめこそ
さて、このほとりにある「ひめこそ」鄕の「こそ」とは敬称だと言います。「姫様」というニュアンスになります。
「ひめこそ」を漢字では「姫子」と書いていたそうです。

そして、この「姫子」とは天文用語で、「黄道から玄天に至るまでの角度」、あるいは「地平線から天頂までの距離」を表しました。「姫子星」(きしのほし)と書けば「彗星」を表していました。


「ひめ」とは「陰唇を隠す一条の白帯」でもあり、女性が身につける白い下帯を指すこともありました。

夜空に白く長く尾を引く様子を白帯に例え、「姫様」というニュアンスで「ひめこそ」と呼んだことになります。
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その彗星は「七十六歳の周期」とあるので、ハレー彗星を指していることは明らかです。これを倭人は「おおげつひめ」と呼んだのではないかと真鍋は推測しています。

物部氏がハレー彗星を、ハレーが発見するはるか昔から観測していた話は過去記事で紹介しました。彗星は黄道を頭にして尾は北辰に達し、その最大限になった姿を「姫子」と呼んだということです。

以上をまとめると、「ひめこそ」とは白く尾を引くハレー彗星、「荒ぶる神」とはカノープスで、南の空低く現れたカノープスをハレー彗星の尾が隠した時の話だとなります。
そして、その年は西暦476年としています。

物部氏はキリストを起源とする西暦を持たなかったために、どうやってカウントしていたかというと、今年から何年前、と遡ってカウントしていました。逆算していたのです。

そのために毎年、プラス一年という更新をしなくてはならず、ハレー彗星などのような周期のある彗星はカウントを確認する目安になったと思われます。

物部氏はユリウス暦とグレゴリオ暦を知っていて、その周期が一致する西暦200年を換算の基準としたために、仲哀天皇の崩御の年を西暦200年と確認し続けていたのです。これが私が神功皇后は200年頃とする根拠でもあります。

以上から『肥前国風土記』に書かれた話は西暦476年で、ハレー彗星が出現し、氾濫星であったカノープスを隠した。そしてその年、大水害があった、ということになります。

以下はその原文の一部を書いておきます。


姫子星(きしのほし)
 肥前風土記 基肆郡姫社の鄕の条に曰く
珂是古、即ち、幡を捧げて祈祷みて云ひしく、「誠に吾が祀を欲(ほ)りするならば、此の幡、風の順(まにま)に飛び往きて、吾を願(ほ)りする神の辺に堕ちよ」と。
太宰府から見ると、この中空あたりに彗星が出てくる。宗像の神々は天津息吹に生(あ)れました。頃は前九〇三年であり、この物語は後四七六年の時である。
 荒ぶる神とはSuhailスハイル即ち淫水、即ち氾濫の神なる諏訪星のことで、その光芒が彗星の裳に隠す光景をいったのである。姫子星は彗星の古語であった。その形に因って基寘星(きしのほし)とも書いた。察するに燕人系の古語であったかもしれない。
 彗星は最初にその姿をみせる所は、水平線に近い赤道上空である。倭人は彗星を大気都比売(おおげつひめ)とよんでいたかと思われる。「おほ」は長大と同時に形だけでなく、人間の呼吸、即ち「いをき」と通ずるところから伊吹星(いぶきのほし)とも呼ばれていた。
 神代紀に大気都比売、大宜津比売は二度登場する。その一つに速須佐男命と相争う神話が語られる。
(略)須佐男命は諏訪星、根自星(ねじのほし)、枯野星(かののほし)即ちSuhailスハイル或はCanopusカノープス、竜骨座の主星で、これ亦地平線だけに隠顕するから、つねに彗星と影をあらそい光を奪われることが多かった。七十六歳の周期は、神代の昔から老人星の現代までも直に生きて長寿を保っているのである。
 「げつ」とは蘖、即ち「ひこばえ」の形を言う。(略)(倭人は)彗星を「ひこばえぼし」といった。彗星の黄道を頭にして、尾は北辰に達するところから、日子延星(ひこばえぼし)と書いたらしい。
(『儺の国の星拾遺』p78 姫子星)



姫子 
 姫子とは箕(き)から辰(しん)、即ち黄道から玄天に至るまでの角度で、時によっては地平線から天頂までの距離と同義に解されていた。彗星の長く大きく発達した限界の形容であった。
 姫子を倭人は「ひめこそ」と訓じた。「こそ」とは倭人伝の弓素(こそ)から古今集の頃まで七百年も生きていた敬称であり、愛し睦むのであれば何でも接尾語として広く活用されていた。





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by lunabura | 2015-04-02 23:56 | 佐賀東部の神社と古墳 | Comments(0)

綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『豊玉』『星の迷宮へのいざない』   Since2009.10.25