2015年 04月 03日
(7)珂是古
(7)肥前風土記的ガイド
珂是古(かぜこ)
佐賀東部あたりで西暦476年に起こったとされる大洪水。思い出すと473年にも大洪水が起こって針摺の瀬戸が埋まっていました。
玄界灘と有明海の船の連絡網は遮断されてしまいました。
これでは古有明海の水運へ大きな影響を与えたことでしょう。ぬかるみだらけとなれば船も徒歩もままならず、右佐島と左佐島の交流も滞りができたことでしょう。
針摺の北の方でも水が不足し、筑紫の君・磐井は蘇我稲目と共に水城の築堤工事に取り掛かったといいます。
そして、そのさなか、ヲホド王(継体帝)による筑紫侵略が起こり、筑紫と火国を治めていた磐井の国体は大きく塗り替えられることになります。
そんな時代、基肆郡の不安定な治水に対する打開策に呼ばれたのが珂是古でした。
珂是古は宗像郡の人。
珂是古は洪水の原因を探るために「旗」を飛ばします。この旗が現代人には意味不明です。しかし、真鍋はしっかり伝えていました。旗は天候や大地の異変の観測器だったのです。
肥前風土記 基肆郡姫社の条に曰く
珂是古、即ち、幡を捧げて祈祷みて云ひしく、「誠に吾が祀を欲(ほ)りするならば、此の幡、風の順(まにま)に飛び往きて、吾を願(ほ)りする神の辺に堕ちよ」といひて、やがて幡をあげて風の順に放ち遣りき。
豊人(とよひと)、即ちTorya(トロヤ)人は地震は風が伝播すると信じていた。地祇の心を教える媒質が大気であった。人間の日々を根底から破壊する地震津浪こそ、最大の恐怖であった。大地の異変の生むをしる唯一の手段が凧幡(たかはた)即ち姫子(きし)であった。
風子(かさこ)は「たかはた」とも言う。凧は今は一枚帳りであったが、昔は二枚帳りであった。長い尾はなかった。いかにも蛾が羽をたたんだ形であったときくが、今はその形は残っていない。
行燈の笠にとまった蛾を下から見上げた形が「ひめこそ」そのものであったときくが、この伝説はすでに原形すらも世人に記憶せられぬ頃の聞き書きであったものと考えられる。
(『儺の国の星拾遺』p13 風子星 烏座γギエナ)
ちょっとびっくりですね。
「豊人」はトロヤ人と伝えています。でも、今日のテーマはこれじゃあ、ありませんよ。期待しないでくださいね(^_^;)
今日のテーマは豊人のもつ旗の文化の方です。地震などの大地の異変の兆候を知るための器(手段)が凧幡(たかはた)だったのいうのです。
この「たかはた」を姫子とも風子とも言ったわけです。
その形は四角の凧(たかはた)に長い総(ふさ)をつけたもので、月の8日にこれを挙げて風信をきいたそうですが、さらにその昔は二枚張りで、長い尾はなく、蛾が羽をたたんだ形だったそうです。
時が経つと形は変化し、また旗を観測する人もいなくなり、凧も正月の遊びにその形を留めるだけになりました。
しかし、こうして調べていくと、筑後国造さんが案内してくれた古墳巡りは、思いがけず現存する凧幡との出会いももたらしてくれました。それが綾部八幡神社だったのです。

この「旗」の意味については、その神社で詳しくみましょう。
紅白の旗「なかて」から「ひめこそ」の旗、そして、綾部の旗、と思いがけず旗を学ぶシリーズとなりました。
幟(のぼりはた)を希語でmpautyera(パウチェラ)という。倭人はこれを巧妙に翻訳して八幡と書きかえた。ここに八幡信仰と宇佐神宮が結託することになった。
旗には別にsymaia(シマイア)があった。これが注連縄(しめなわ)の一つの語源になったものと思われる。Symaiaは「たかばた」、昔の「ひめこそ」と同じで四角の凧(たかはた)に長い総(ふさ)をつけた形であって、月の八の日にこれを挙げて風信をきく器であった。 (『儺の国の星・拾遺』p96 アウリガ βメンカリナン)
八幡シリーズが難しすぎて中断していますが、幡を理解したら、またチャレンジできるかもなあ。
それでは、いったん基肆郡をおいとまして、西へ参りましょう。
※下の「佐賀東部の神社と古墳」をクリックするとシリーズで読むことができます。
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宅地の開発や行政による調整で昔ながらの地名が消えていくのは悲しいですね…。
今は宅地やアウトレットモールなど開発されている弥生が丘も昔はそんななまえではなかったし、雑木林で私は好きだったのですが…。
姫古曽神社があるのは姫方(ひめかた)町、先日コメントした永世神社は永吉(ながよし)町、その間に幡崎(はたざき)町という町名があるのですが、幡、の言い伝えと関係があるのかもしれませんね。
幡崎は気になっていました。何故なら久留米に旗崎という地名があって、そこは景行天皇・神功皇后の幡を立てた所だからです。少し小高い丘になっていて周囲が見張らせるような地形です。
基肆は景行天皇の伝承があるので、地形が同様だとすると、同じ起源があるかもしれないと思っていたのです。
郷土史なんかにいろんな伝承が書かれているので、出会えたら新しい展開ができそうです。
媛社については、もう一回書く予定ですが、今週はバタバタしています (^_^;)
肥前風土記 亘理(わたり)郷記に景行天皇筑紫巡狩のとき、御井川が巨大な湿地帯を為し、人畜渡りがたしを、生葉の山を船山となし、高羅の山を梶(鍛治)山とし、船を造り人々の便宜を図ったとあります。
この船が就航したのが、旗崎と幡崎だったのではないかと、考えています。









