2015年 04月 23日
(13)綾部八幡神社2 忍海漢人が兵器を造った
綾部八幡神社2
忍海漢人が兵器を造った
「山田って、あの集落ですか?」
なんと、山田古墳群の地域はやはり鉄器すなわち兵器を造っていたところだそうです。
そして、ここは本来風の神を祀っていたと言われます。
そう、製鉄には風が必要なんですね。
そして、時代はあの来目皇子が筑紫に来た時、忍海漢人(おしみのあやひと)がここに来たというのです。
え?名前は知ってるけど。来目皇子の時代?!(@_@;)
忍海漢人が兵器を山田で造った!
すると、あの山田古墳群の被葬者もその人たちではないか。
そりゃあ、もう、忍海漢人の一族の古墳群としか考えられない。
あれほどの古墳を庶民が造れるはずはないんだから。
しかも、時代が特定できる!来目皇子の時代だ。
家に帰って落ち着いて読むと、いただいた由緒書にはっきりと書かれていました。
綾部郷と綾部一族
推古天皇の628年、来目皇子が新羅征伐の際、播磨国の帰化人忍海漢人をこの地にとどめ、兵器を造らしめたが、そのまま土着して風神(バアヤベイ)を祀って里を作った。この漢部を綾部と書き改めた。バアーヤーベーからアヤベとなったとも推定される。
仮説が合っていれば、あの古墳群の時代は628年以降となります。
来目皇子は聖徳太子の弟ですね。
『日本書紀』によると、「推古10年2月に来目皇子を新羅征伐の将軍に任命し、もろもろの神部(かむとものを)および国造(くにのみやつこ)、伴造(とものみやつこ)ら合わせて2万5千人の軍衆を授けた。」とあります。
2月。真冬の決定です。2万5千人も大移動した!この人数にはいったいどれほどの食糧が必要でしょうか。船はどれほどあったのでしょうか。
こんな疑問をかつても書きました。屯倉の蔵が解放されたことでしょうが、博多沿岸は一気に人口が倍増して、大変な状況だったと思われます。
書紀の続きには
「夏4月1日に将軍来目皇子は筑紫に到着。志摩郡で駐屯、船舶を立詰めて兵糧を運んだ。」と書いてあります。
しかし、6月3日、志摩郡で来目皇子は病に臥し、翌年2月4日に薨去しました。将軍となってわずか一年でした。
この2万5千人の中に忍海漢人の集団がいたのでしょう。彼らは糸島とは山を隔てたこの谷筋の風を見極め、兵器を造ったのでしょうが、その準備がわずか一年で整ったのか、疑問が残ります。
山田にはもっと前から製鉄集団がいて、そこに新たな武器製造の技術が導入されたのかもしれませんね。
さて、将軍の死の知らせはすぐにここまで届いたでしょうか。届いたとしても戦争を中止する訳ではないので、鍛冶工人たちはここに留まって武器製造にいそしんだことでしょう。
そして二か月後、4月に当麻皇子が次の将軍に任命されるも、妻が途中で病死。当麻皇子は引き返したのでした。
鍛冶工人たちは播磨に戻らず、ここで新たに村里を作ったと縁起は伝えます。
ところで、推古紀には忍海漢人のことは出てきません。『肥前国風土記』の方に「綾部郷」のことが書かれていました。「三根郡」にその名が出てきます。
漢部(あやべ)の鄕 郡役所の北にある。
昔、来目皇子は新羅を征伐しようとして忍海(おしぬみ)の漢人(あやひと)に勅し軍衆として連れて来て、この村に住まわせ兵器を作らせた。それで漢部の鄕という。
この綾部八幡神社は古来の伝承を今に伝える古社でした。
ところで、当社では風神の名を「バアヤベイ」と伝えています。エジブトあたりの嵐の神「バアル神」をなんとなく思い浮かべるのは、るなぐらいかなあ。

左手の山はいかにもイナリとして鉄器製造によさそうな地形ですが、特に施設はないそうです。
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