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ひもろぎ逍遥

(14)綾部八幡神社3 旗で気象を占う

佐賀東部神社と古墳 (14)

綾部八幡神社3 

旗で気象を占う


このお宮にはもう一つ大きな特徴があります。それは旗で気象を占う儀式が今でも続けられているという点です。

帰りしな、神旗を見せていただきました。

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社務所の壁にこれまでの旗が時系列に掛けられています。


これらは麻で出来ていて、長さは一尺二寸。300年前にこの長さだった記録があります。

明治43年までは旧暦の6月15日に掲げていましたが、翌年の44年からは7月15日に揚げて彼岸中日の翌日に降ろしています。


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中央の昭和37年の旗は下がりも完全に残っていますが、左の昭和40年は半分に千切れて色も変色しています。

風の強さが違っているのが一目瞭然です。
日々、旗の巻きこみ方から気象を占い、宮には30ほどの型とその気象データが伝わっているそうです。


この旗を真竹(50mだったと思います)に取り付けて銀杏の木にくくりつけるのですが、その真竹の先が枯れていてはいけないそうです。

しかし、地面からは先の状況が見えないので、切り倒してか初めて確認できるそうです。ですから、枯れていないものが見つかるまで何本も切り倒さねばならないとのことでした。



さて、「気象を占う旗」に関しては、真鍋大覚が書き記したものがあります。まさかその現物を現代社会で見ることが出来るとは思ってもいませんでした。こうして実見することで、次の話が理解でき、さらに詳しい状況が想像できるのでした。

昔は神社には長さ四十尺、巾一尺の幟(のぼり)を上から吊り下げる形で立てた。これを幡と言う。倭人は「のぼりばた」と訓じる。

今から七百年の昔、ユリウス暦がイスラエル暦との間に七日、即ち上弦下弦の日数だけ朔望から外れる頃になると、旌旗(はんき)に変わった。これを「なかばた」といった。今の「はた」の形式がこの頃に百姓だけの器として、うちわに普及してきたのであった。

察するに彼岸が西域でParthusパルトス、即ち左右二つに開く意を言うし、春分は夏の門であり、秋分は冬の門であったところから、その扉の片方だけを旗に置き換えたものである。

これを「かたはた」と言い、略して「はた」になったときく。

すべて上から賜(くだ)されるのは「ながはた」であり、百姓が随時に用いることが出来るのは旗(かたはた)と定められていた。

維新後は泰西(たいせい・西洋)の伝統に習って弔意を表すに半旗を揚げる言葉が出来た。原語は半柱、或は半檣であるが、この聞きなれない舶来語をきいた明治の人々は、半旗なる和訳に何か納得しがたい響きを感じていたのである。
(『儺の国の星拾遺』p13 烏座 ギエナ星 44風子星)

これによると、神社ではもともと約30センチ×12メートルほどの幟を下げていて、これを幟(のぼりばた)と言いました。その後、1300年ごろには「なかばた」という短いものが百姓用に普及したようです。

これが「かたはた」「はた」と変化していくのですが、その背景には西域の春分、秋分を季節の扉と考える西洋の思想があったことを真鍋は示唆しています。

綾部八幡神社の場合、古い時代6月15日だったのは、夏至近くの満月の日に掲げられたと考えられ、真鍋の郷土の那珂川町の暦とは違う基準を持っていたようです。

夏至ラインといえば、すぐ近くの吉野ヶ里遺跡の夏至ラインが思い出されます。

春分秋分、夏至冬至など、新年の違いなどが催事の日取りや遺跡の祭祀ラインに反映されるはずなので、それらと氏族の対応表なんかができたらいいなと思って、コツコツと調べています。渡来人は故郷の風習を持って来ているはずだからです。

さて、引用文に戻りましょう。明治維新後、弔意を示すのに、旗を柱の上部から3分の1ほど下げた状態で掲げますが、これを日本語で「半旗」と訳しました。が、これが当時の人々には納得できなかったと真鍋はいいます。

日本にはすでに「はんき」という言葉があって、もともと「かたはた」すなわち短い旗を意味していたからです。



福岡の志式神社の伝承に、近くを通る船は旗を半分降ろして通ったという話があるので、日本では古来、旗を少し降ろすのは神々に敬意を示す意味で使われたことが分かります。ですから、国際的な基準とは違う使われ方があったということになります。


それで、当時の人は首をかしげたんですね。

さて、ユリウス暦とイスラエル暦が出てきました。物部氏は各民族の暦をつねに対照していたことになります。インドネシアだったでしょうか、いまだに各部族によって暦が違うので、毎年カレンダーが凄いことになっているそうで、古代日本もそんな風だったんでしょうね。

この綾部八幡神社では来目皇子の時代、播磨から来た鍛冶集団が製鉄をするのに最適な谷風が吹き始める日を旗で占っていたのかもしれません。

また、他のハタザキとの関係も興味深いです。古有明海にせり出す岬の上に宮はあります。久留米の旗崎、鳥栖の幡崎と同様に旗が靡いていた所で、奇蹟的に古来の姿を留めるものと思われました。

さて、最後に宮司さんに古墳のことを尋ねました。すると、先日書いた山田古墳群以外に古墳があることを教えていただきました。それが筑後国造さんがセレクトしてくれていた代表的な古墳だったのです。

ここと関連があるかも知れませんね♪
次回はその古墳を御紹介。えっと。名前は「高柳大塚古墳」と言います。



綾部八幡神社





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Commented by くじら at 2015-06-20 20:32
連投失礼します。

綾部神社を参拝したあと、南に真っ直ぐ伸びる参道を、行き止まりまで、二キロぐらい走った所、三養基郡(現在は みやき町)の 物部神社に突き当たりました。ここもかつての岬地形であり、岬周囲の旧 海水面の現在の標高は10mでした。旗崎、幡崎とおなじです。
しかも、この物部神社、御神紋が三階松なんです。
今日始めて気づきました。
Commented by lunabura at 2015-06-22 21:53
綾部神社と物部神社はそんな位置関係にあるんですね!そして、三階松ですか\(◎o◎)/!
高良下宮社と宮地嶽神社に共通する三階松紋とは…。
草壁氏の系図と貸していただいた本も繋がったんです。
高良玉垂命と高良の神のどんでん返しがあるかも!
by lunabura | 2015-04-26 22:10 | 佐賀東部の神社と古墳 | Comments(2)

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