2015年 06月 11日
佐賀(18)吉野ヶ里遺跡3 王墓と祭祀線と徐福伝
吉野ヶ里歴史公園(3)
王墓と祭祀線と徐福伝
墳丘墓には行かなかったので、王墓についてはまたの機会にと思ったのですが、
今朝の夢で「王墓」と出たので書く事にしました。
次回訪問する時のための予習かな。
資料は「弥生時代の吉野ヶ里」(佐賀県教育委員会)です。
太陽祭祀線
前回、北内郭の主祭殿に登りましたが、地図をよく見ると
この主祭殿を守る二重の環濠は左右対称の不思議な形をしています。(赤丸)

明らかに中心軸を持っているのが分かりますね。
軸は夏至の日の出と冬至の日没ラインに乗っているそうです。
これは彼らの作るカレンダーが夏至の日の出を基準にしている事を示しています。
その軸上に建物が二つあります。ここで祭祀するのでしょうか。
これは次回訪問のお楽しみ。
王墓祭祀線
環濠の主軸に対して主祭殿の向きは、ずれています。
この16本の柱の軸は北にある王墓の中心軸に繋がっていました。
その中心軸を南に延長すると祭壇があります。
大きな地図で見るとさらに長い祭祀線が見えて来ます。

物見櫓でガイドの人が他の人に説明をしていたのですが、
「南北の祭祀線がある事から、中国の影響を受けています。
東背振山から引いています。」
という言葉が聞こえて来ました。
その前の話を聞いていないので間違えていたら申し訳ないのですが、
今思えばこの王墓祭祀線だと思われます。
正確には南北線は写真のように少しずれています。
南北は厳密に測量されるはずですから、
このずれは研究するべき大事なポイントですが、今の私には分かりません。
「中国の影響」と聞いて私は徐福の渡来を思い浮かべました。
徐福は目の前の有明海から上陸しました。
徐福伝説は和歌山の方が有名で、佐賀県の伝承はあまり知られていません。
何隻も一緒にやって来たので、日本の各地にバラバラになって到着しています。
その一つが佐賀県で、金立(きんりゅう)という所です。
私も断片的に聞くだけで、もっとすっきりと
アウトラインが分からないかなと思っていたのですが、
これまた森浩一氏が見事にまとめた記事が掲載されました。
「忘れえぬ人―森浩一の交友録 13 内藤大典さん」
(西日本新聞2011,11,15)です。その一部を抜粋します。
内藤さんは(略)日本でも有明海沿岸、とくに佐賀平野にある徐福伝説と弥生遺跡を対応させ、解明の手掛かりがえられないかと着目された。(略)
徐福は秦の始皇帝と同時代の方士(宗教家)である。徐福は東方に理想的な国土のあることを知って、始皇帝に航海の費用を出させ、前210年ごろに山東半島から船出をした。
この旅は三千人の童男や童女や百工をつれ、五穀の種子をも携えたもので(目的地に着いてから)、平原広沢(の地)をえてそこに止まり、王となって戻らなかったという(『史記』秦始皇本紀、准南・衝山列伝)。
これは大規模な集団をつれての計画的な移住記事とみてよい。これに類する記録は沢山ある。その後秦は衰退し、滅亡する。そのことを予想しての行動であろう。
三千人の童男・童女とは、移住先で結婚して子供を増やせる若い男女の意味であろう。歳をとった老男老女では、新しい土地で人口が増えることは期待できない。
日本列島には約十ヶ所の地が徐福伝説をのこしている。有明海沿岸地域と鹿児島県や宮崎県、日本海沿岸では丹後、太平洋沿岸では和歌山県と三重県にまたがっての熊野などである。
これらの徐福伝説のある土地のうち、地域の信仰と結びついているのが、これから述べる佐賀平野である。なお福岡県八女市にも根強い伝説がある。
僕は前に自分なりに徐福伝説を整理するために、以上の関係する土地を踏査し、図説日本の古代一巻の『海を渡った人びと』の中の「有明海を通じての交流」の章に「生きつづける徐福伝説」を書いた。平成元(1989)年だった。
その中で述べたことだが、佐賀平野を見下ろす背振山の一つの峰として金立山(きんりゅうさん)がそびえ、そこに金立神社の上宮がある。中腹に中宮、麓の佐賀平野に下宮がある。
佐賀平野の徐福伝説は金立山の眼下に展開する佐賀平野、さらに海岸の佐賀市諸富町にかけての地域に残っているのである。
この地域では、農民の信仰行事として正月に「金立さんみやーい(詣り)」が続いているし、五十年に一度の例大祭では、徐福が金立山に入ったと伝える逆の道筋を通って神輿(みこし)が通る。
金立神社には、徐福一行の有明海上陸を描いた「金立社画図縁起」一幅が伝わる。これを実見した時、よく描かれていることと中世まで製作年が遡(さかのぼ)りそうだと感じた。
このような徐福伝説がる佐賀平野に、弥生時代の集落跡としての吉野ヶ里遺跡がある。内藤さんは佐賀平野の徐福伝説と吉野ヶ里遺跡の関係を解明するため、晩年に著作を始めた。
原稿がある程度できるとコピーが送られてきて意見を求められた。僕も忙しい時期だったが、できるだけ協力した。原稿が予定の半ばまでに達し出版社も決まったころ、内藤さんの生涯は終わった。
一言つけ加えると、一昔前には弥生時代には農村(ムラ)ばかりという見方が支配的だった、だが吉野ヶ里の出現によって、そのような固定観念が激変した。
『魏志』倭人伝に国邑(こくゆう)という言葉がでている。この国は倭国とか日本国などのように広大な範囲ではなく、伊都国とか奴国など、今日の一郡か一市ぐらいの範囲である。小都市とみてよかろう。吉野ヶ里遺跡も国邑の一つとみられる。
吉野ヶ里遺跡では各種の青銅器を製作していた。しかも玄界灘沿岸地域より早く開始されていたとみられる。この政策にたずさわったような人が百工(のうちの一つ)であろう。
(後略)
地名が県外の方には分かりにくいと思いますが、
金立と吉野ヶ里の距離はわずか約8キロです。
吉野ヶ里の集落が形成され始めてしばらくして、
すぐ近くに秦の文化を持った集団がやって来て住みついたのです。
影響が多大だったと思われます。
内藤さんの研究が出版されなくて残念ですね。
私の夢はこの徐福の記事を読み直せという事だったようです。
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そこで南に目を転じると、その線の先には有明海きってのランドマーク、雲仙の普賢岳(平成新山)があります。さらに吉野ヶ里の時代の始まりとされる紀元前300年頃の春の真夜中には、普賢岳の頂上に南十字星が堂々と輝いていました。時代が下り、吉野ヶ里終末の紀元300年頃でも、まだ山頂には十字星が架かっていたようです。
南方からやって来ていたかもしれない吉野ヶ里の住人にとって、南十字星は特別なもので、それが山頂に架かる姿は遠い祖先につながるものだったかもしれず、この方位線は王墓の祭祀線としてふさわしく思えます。北内郭の枠取りは夏至・冬至に関係するとしても、中にある大きな建物はこの方位線に直角に交わっています。この建物に上って眺める南十字星はそれは美しかったことだろうと想像します。
西暦300年頃の北内郭から見た8月初旬の北の空には深夜2時頃、北斗七星が、起伏の少ない稜線上に置かれたように見えます。これを観察者がどう捉えたか判りようがありませんが、『儺の国の星 (P20)』にあるように、末期の水を掬う匙、あるいは、人間の死を登録する神と見たかもしれません。墳丘墓の背景としてはそれも合いますね。
その他の星となる数が多過ぎて手のつけようがないのですが、やはりスピカやシリウスあたりは要チェックでしょうか。長く存在していた遺跡では歳差で空の様子も変わるので、どこをどう見ればよいのか悩ましいです。
それから、夏至の日出・冬至の日入ラインに沿っている北内郭の内側の環濠内にある六つの建物を二つずつ組み合わせて結ぶと、(1)南北 (2)東西≒春分・秋分 (3)冬至の日出・夏至の日入 (4)夏至の日出・冬至の日入の四つの方位線が引けます。整然とした建ち並びではないので意味はないのかもしれませんが、もしかしたら、ここは真鍋が言うところの「天をくまなく観察する隈本(観星台・天文台 拾遺P173)」の前身のような施設(全ての建物に屋根があったのでしょうか?)で、漢の天体観測技術も伝わっていたのではないかとも考えます。
日本がどのように先進的な天体観測技術を得たかは不詳で、天智天皇の時代になると突然、漏刻だ、時報だと始まります(日本書紀)。しかしその頃には日本の天文学者たちの観測方法に中国などにもない独自の創意工夫(観測間隔の日数)が見られ、それは長年の蓄積がなければできないことですから、吉野ヶ里の時代には既にその学習が始まっていた可能性もあります。太陽を観測して、正午の合図に銅鐸を叩いていたかもしれませんね。
シリウスは例の夜渡七十の観測をしていたことでしょう。真鍋もまた観測してたようです。
スピカは紀元前666年頃には春分を告げる星だったそうですが、紀元300年はもう違いますね。ただ、太陽の動きが読みにくい時期で、それの目安になる星を持っていたようです。探せば何処かにあったような…。
北内郭はどうやら観星台のようですね。
他の六つの建物の観測ラインは、またまた新発見だと思います。







