2015年 06月 15日
佐賀(25)神埼の物部氏と吉野ヶ里は?
神埼の物部氏と吉野ヶ里は?
曽我氏と平群氏は福岡市早良郡に入植していました。和名抄にその地名が記録されています。中臣氏は那珂川町だそうです。
これらは脊振山から見ると北側にあります。那珂川の中臣氏と紛争があったのが物部氏で、神崎にいたことが以下の文に書かれています。
筑前に早良なる郡が置かれたのは曽我稲目(467~570)の世からであった。「ささのはら」の略の名であった。「ささ」とは紫微の倭名であった。
稲目星は立冬の暁方に見られる獅子座流星群の古名であり、一説には含水炭化物の宇宙塵を隕石と共に降らせる彗星の別名でもあった。
稲目は伊儺面(いなめ)と書き、怡土郡と那珂郡の間に新開の土地を開いた業績を讃えられたのであって、継体帝21(527)年に出る筑紫国造磐井と共に雄略帝17(473)年の洪水を修めたのであるが、神埼の物部氏と那珂中臣氏の間に水利の紛争が昂じて欽明帝13(552)年の仏像を巡っての対立に及んだのである。『儺の国の星拾遺』p134
「神埼」(かんざき)とは吉野ヶ里遺跡のある地名です。脊振(せぶり)山の南にあります。
有名な、蘇我氏と物部・中臣両氏の対立は、脊振山を挟んだ水利の紛争が遠因だったと真鍋は伝えています。
これはまだよく理解できていない部分なのですが、今テーマにしている吉野ヶ里遺跡が神埼にあるので、物部氏はこことどう関わったのか、気になっていました。
引用文には5~6世紀の話が書かれていますが、ちょうど吉野ヶ里遺跡が空っぽになった時代に当たります。
吉野ヶ里の高度な金属加工技術や天体観測の文化の来歴を考える時、それらが物部氏のキーワードと重なっていることも気になります。
物部氏は元来は星辰を祭る家系で、その先祖は近東にあった。いつのころか中臣の氏族と和睦して、脊振の北と南を領有していたのである。
恒星に対して遊星、彗星は振れ動き、又、揺れ偏って、その位置が定まることがない。それを「ふれ」と言い、そのわずかな方向の差別を物部・中臣の両氏は「つづら」と「かづら」にわけて、その観測記録を撮り続けた。
物部氏は星見(ものみ)の家系であった。
物部氏と中臣氏はいつの間にか和睦して脊振山の北と南を領有していたとあります。それぞれの地から見える方位の天体観測をしていたというのです。
天体観測に勝れていたのは両氏族以外にもいます。
葛生(くず)の氏族を「つづらみびと」と言った。星占の達人の家系であった。一般に「つづら」とは黄道から南天の星を見定める氏族であり、「かづら」とは黄道から北天の星を見取る氏族であった。
葛生は国栖とも書きます。この人たちもまた天皇に講義するほどの知識があったのです。吉野の国栖。ここは吉野ヶ里。また近くのダムに沈んだ吉野の離宮。ここまでやって来た天智天皇。
これらのキーワードを並べた時、佐賀の古代は最先端の文化が花咲く土地で、歴史的な研究が必要な所だということがよく分かります。
有明海がもたらすものは豊富な海の幸だけでなく、ダイレクトに繋がる中国大陸の文化なんですね。そうすると、大船の入るような湊の研究が大切だということも分かってきます。
「八」の民である物部氏も九州に流れ着いて孤立してしまったというのではなく、佐賀や高良下宮社を拠点として、大陸との連絡を頻繁に行っていたのかも知れません。
吉野ヶ里の北内郭の精密な設計を見ていると、物部氏や国栖との接触があったのではないか、という思いが芽生えてきました。
吉野ヶ里遺跡の年表を見ると、「北内郭の成立時期」は「卑弥呼の共立時代」と「魏への遣使(239)」の間に書かれています。
換算すると、230年頃でしょうか。確実な所は分かりませんが、卑弥呼が現役で活躍した時代なのでしょう。
吉野ヶ里が発展していく中、弥生時代の後期、すなわち卑弥呼と重なる時代に天文観測の知識が導入されて北内郭が成立した、と推測できます。
天文知識をもたらしたのが、徐福の秦氏か、あるいは物部氏か国栖か。具体的な氏族名で考える時期に来ているようです。
それは星の祭祀、元旦の基準などから特定できるかもしれません。
物部氏は鳥栖には痕跡がありましたが、鳥栖は神埼ではないですよね。この辺り、地元の方、教えてください。
チーム・アンドロメダ!
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北内郭を環濠の外からみる。

館内掲示物より。

迫力の「祭殿」。北内郭内の最大の建物。

物見櫓(やぐら)

物見櫓から見た脊振山系。(あいにく雲が残ってますね)
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るなさんのブログを見るまでは、古代日本に中近東やヨーロッパの影響があるなんて、受け入れ難かったのでが、今では、ゾロアスター教の影響などを主張する松本清張の本もすんなりと受け入れられるようになりました。
古代エジプトでは、北天と南天の意味は明確に分けられており、地平線に沈まない北天の星(座)を神として祀り、地平線から次々と現れる南天の星(座)を観測し暦を定めるなど(クレオパトラの天体図など)、背振山系の北と南で中臣氏と物部氏が業務分担していたのは、氏族の特徴としても良く理解できます(古代エジプトも夏至を節目にしていたと思います)。
ところで、「儺の国p134」の解釈は、主語から見ると「物部氏と中臣氏の対立」ではなく、「曽我氏と物部・中臣氏の対立」と思うのですがいかがでしょう?
古代エジプトの話、びっくりです。近東にはエジプトが含まれるんですよね。
物部の出身を真鍋は明確に書いていないので、憶測しかできなかったのですが、それなら全体がまとまりそうです。
p134の解釈。仰る通りです!書き換えときます^^
黄道によって北天と南天に分けて観測していたということは、紀元前から西暦へ移り変わる前後の数百年間、黄道に寄り添うように夜空に擬似黄道を描いていた乙女座のα星スピカの軌道観測は必要不可欠だったはずです。
バビロニアで春分を司る女神だったスピカ(儺の国の星P36)は営々と観測され続け、出自を近東とされる物部には詳細かつ膨大なデータの蓄積があったでしょう。であれば、星読みとして物部の右に出るものはいなかったと思われます。
しかし、西暦200年以降に、吉野ヶ里にも革新的な観測方法が導入され、北内郭が星見台として整備されようとしたときに必要とされたのは、知識のみならず、海外からの、当時は国家機密扱いであったはずの観測機材の輸入であったかもしれません。それには相手国の信頼厚く、交渉から納入・運用まで行う総合貿易商社的な性格を持つ組織が必要ですから、西暦200~250年頃に、中国との安定した太いパイプを持っていた氏族が関わったと思われます。
物部が観測以外も全てを自前で行えたというのでなければ、複数の氏族によるいわば共同企業体によって、北内郭の施設は完成したことになります。
現在、北内郭の案内図には太陽の日出日入線が祭祀関係として一本引いてあるだけですが、遺跡管理者にはもっと大胆な仮説を期待しています。太陽だけではなく星の動きも関連付けてみると、あの環濠の不思議な形の理由も解ってくるのではないでしょうか。
本記事に転載させてくださいね。








