2015年 06月 16日
佐賀(26)吉野ヶ里・北内郭の天体観測
吉野ヶ里
北内郭の天体観測
これまでの流れをまとめてみましょう。
北内郭全体の主軸は夏至日出と冬至日没を採っているので、太陽祭祀がメインですが、墳丘墓と祭殿の主軸の延長上に普賢岳と南十字星を見ていることから、北内郭は高度な天体観測所(隈本)兼祭祀所だったと考えられます。

北にはもちろん北斗七星があるのですが、北極星に関しては北内郭の建設時代には目ぼしい星が存在しないので、彼らはツバーンとポラリスを必死で観測していたと思われます。
神崎には南の星の観測が得意な物部氏が居たと真鍋は伝えているのですが、吉野ヶ里人と接触したかどうかはこれからの課題です。
脊振山の北を中臣氏、南を物部氏が観測していたという話に関して、こんばんわんさんが、興味深いコメントを入れてくれました。
古代エジプトでは、北天と南天の意味は明確に分けられており、地平線に沈まない北天の星(座)を神として祀り、地平線から次々と現れる南天の星(座)を観測し暦を定めるなど(クレオパトラの天体図など)、背振山系の北と南で中臣氏と物部氏が業務分担していたのは、氏族の特徴としても良く理解できます(古代エジプトも夏至を節目にしていたと思います)。
物部氏が近東の出だとすると、「吉野ヶ里と同じ緯度」から観測できる星を詳しく知っている可能性は高いです。
エジプトとの関連が証明されれば、「北」に歴代王の墳丘墓を造ったのも、「王が死後に神となる」という思想を反映したものともなります。
シリウスに関して真鍋の残した文の一部を紹介しましょう。
●エジプト人は夏至の東天に上がるシリウスをソティスあるいはコプトと崇めた。
●エジプトでは夏至の正午をもって一年の中日とした。
●秦の始皇帝(前259~210)は咸陽に阿房(あぼう)宮、漢の高祖(前255~159)は洛陽の都に未央(びおう)宮なる世界一の殿堂を建設しました。
昼は日、夜は月と光を競うソプト(シリウス)を無上の憧憬を以て仰ぎ見た英雄の心が阿房未央の名に秘められています。
●シリウスが節分(きわけの)星(ほし)(きわけのほし)として立秋の朝に東に見え、立春の夕べに西に見え、立夏の日中に南に輝き、立冬の夜中に南にまた輝く時代は、歳差約20日、即ち欽明帝元(540)年の頃になります。
明(めい)を欽(うやま)う諡(おくりな)の由来が分かる所でありまして、それぞれ春夏秋冬の兆候を知らせる星になっておりました。
このほか、シリウスによる天気予報、夜渡七十、地震津浪の予測などについても書かれています。
シリウスが東に西に、そして南に、と季節によって方角を変えるので、吉野ヶ里では、その観測も欠かせなかったことでしょう。
突出部

吉野ヶ里の北内郭を拡大して見ると突起(突出部)の部分に物見櫓が配置されていますが、よく見ると、主軸がてんでバラバラです。
物見櫓の主軸は「星を見ている」と推測します。
「北内閣の建設時期」に関して、教育委員会の出した本には
●弥生後期中頃~後半に南内郭・北内郭が設けられ、後期後半と、後期後半~終末期の二時期に環濠を掘りなおして営まれている。
●新段階のものはいずれも後期終末いっぱいで埋没している。
と、一般人にはいつの話か分からないように書かれています。
弥生時代は、学者によって年代が違うのかも知れませんが、吉野ヶ里遺跡の立場として堂々と「何年頃」と表記していただきたいものです。
ステラ・ナビゲータなどで北内郭に関して調べる時には「建設時期」で調べればいいので、「弥生後期中頃~後半」を入力すればOKです。(といっても、入力できないですよね
(+_+))
仕方ないから年表を見ると、2世紀の終わり辺りに建設の記事が書かれています。西暦190年頃で調べるといいのかなあ。(佐賀県教育委員会に確認した方が無駄がなさそうです)
突出部の設計に関しては中国の影響が示唆されています。
以上が、今回までの流れです。
るな的には「暦は天子が配る」ということなので、この北内郭はクニの威信をかけたものだと思いました。
Tatsuさんからのコメントです。
記事の内容を勝手解釈した思いつきアイデアです。
黄道によって北天と南天に分けて観測していたということは、紀元前から西暦へ移り変わる前後の数百年間、黄道に寄り添うように夜空に擬似黄道を描いていた乙女座のα星スピカの軌道観測は必要不可欠だったはずです。
バビロニアで春分を司る女神だったスピカ(儺の国の星P36)は営々と観測され続け、出自を近東とされる物部には詳細かつ膨大なデータの蓄積があったでしょう。であれば、星読みとして物部の右に出るものはいなかったと思われます。
しかし、西暦200年以降に、吉野ヶ里にも革新的な観測方法が導入され、北内郭が星見台として整備されようとしたときに必要とされたのは、知識のみならず、海外からの、当時は国家機密扱いであったはずの観測機材の輸入であったかもしれません。それには相手国の信頼厚く、交渉から納入・運用まで行う総合貿易商社的な性格を持つ組織が必要ですから、西暦200~250年頃に、中国との安定した太いパイプを持っていた氏族が関わったと思われます。
物部が観測以外も全てを自前で行えたというのでなければ、複数の氏族によるいわば共同企業体によって、北内郭の施設は完成したことになります。
現在、北内郭の案内図には太陽の日出日入線が祭祀関係として一本引いてあるだけですが、遺跡管理者にはもっと大胆な仮説を期待しています。太陽だけではなく星の動きも関連付けてみると、あの環濠の不思議な形の理由も解ってくるのではないでしょうか。
新たな弥生像、大胆で面白いです。
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リアルな生活が忙しく(趣味の時間が欲しいですね~)、久しぶりにコメントさせていただきました。憶えて頂いてて光栄です。
るなさんのブログには、いつもヒントを頂いています。
八幡では、るなさんのヒントで思いを巡らした所、比売神がエジプトのイシス神と似ている部分があると思い、エジプトあたりを「にわか勉強」したことがあったので、先日のコメントをさせていただきました(元々るなさん発信みたいなものですね)。
以前は、アマテラスはエジプトのラーであるといった説は一笑に付していましたが、今では、そう思ってしまうのも理解できる部分があるなと思うようになりました。(ちなみに、エジプトではシリウスは5(五芒星)という話もありました)
しかし、真鍋氏の本、興味がありますが難しそうですね。ご親族に後継者がおられたら話を聞いてみたいですね。
るなさんのブログでは、内容に相当な反響もあると思います、良い反響も多いと思いますが、困惑される事も多いのではと拝察します。物証が出るまでは推論なので、推理小説やサスペンスのように、様々な説を楽しめればと思うのですが、、、今後も楽しみにしています(^ー^)
でも、公開日記ですから、自分の備忘のために記録しとこ、と思うと気楽になりました。
これをキッカケに論争でもあればいいかなと腹をくくりました^^








