2015年 06月 21日
佐賀(28)櫛田宮2 出雲神話を伝える宮だった
櫛田宮2
出雲神話を伝える宮だった
クシナダヒメ
前回は境内資料館の古文書に書かれていた「櫛田大明神とは伊勢大神宮の大娘(ひめ)豊次比売命」を紹介しましたが、HPには「櫛田大明神」のことは「櫛稲田比売命」と書かれています。
HPに書かれた御祭神
櫛田三柱大神
・櫛稲田姫命(クシナダヒメノミコト)正面御座、櫛田大明神
・須佐之男命(スサノオノミコト) 東 御座、 高志大明神
・日本武命 (ヤマトタケルノミコト)
佐賀神埼にクシナダヒメが祀られているのは思いがけないことですが、なんと、当地ではヤマタノオロチの伝承をも伝えていました。

拝殿の左手から裏に回ると、「神崎発祥の地」の石碑があります。ここを櫛山(くしざん)と言うそうです。

その左手に石の甕がありました。HPによると、
神社裏一帯を櫛山と称して、古代神祭の旧跡と伝える。かたわらに石造の酒甕と伝えられるものもあり、祭神がヤマタノオロチの災厄をのがれ給うた神話の証として、生児のヒハレ(初宮)詣りの際、その生毛を納めて生育を祈る風習がある。とあります。
1年おきの春祭り(みゆき大祭)は、800人近い大行列で賑わうが、その先払いの尾崎太神楽(佐賀県重民無文指定)を保持する尾崎地区周辺には大蛇にちなむ地名伝説がある。
大昔大蛇が住民を苦しめた。鼻は花手に尾は尾崎までおよぶ長さ六丁の大蛇。人々は野寄に集まりて協議して、柏原から柏の木を伐ってきて伏部からふすべ(クスベ)た。大蛇は苦しみ蛇貫土居をのがれ、蛇取で退治された。今も蛇取に蛇塚がある。
なお尾崎太神楽の獅子は他所の獅子舞とは異なり大蛇を表現したものであり、蛇は櫛田神の使い(眷属)で、その伝説は霊験記(室町時代)にまとめられている。
(櫛田宮HPより)
ヤマタノオロチは600mほどの大きさ。酒甕はクシナダヒメがその難を逃れた話を伝えるものでした。
ここにはあの出雲神話があったということになります。
ヤマタノオロチは何の象徴なのでしょうか。そのキーワードは剣、鉄、洪水、戦い。
そして、景行天皇はここに伊勢の神を祀った。大正時代にはクシナダヒメの両親もまた祀られていたというのも看過できません。
出雲VS伊勢?
櫛田宮の祭神の変遷は、ここが古代から重要な土地で、争奪戦があった名残を伝えているのかもしれません。
現在、ヤマトタケルもまた併せて祀られているのは、彼もまた近くにやって来たからだと思われます。それは熊襲タケルとの戦いとも繋がるのでしょうが、このそばの城原川の上流の宮にもその足跡が伝わっています。白角折(おしとり)神社と言います。
(熊襲タケルとの戦いは過去記事「真手山」に書いています)

さて、境内には印鑰(いんにゃく)神社と稲荷社が二つあります。印鑰とは役所の印鑑と鍵のこと。当社地が神埼の中心だったことを裏付けています。
櫛田宮と櫛田神社

神紋は剣が二本。
櫛田宮と博多の櫛田神社との深い関わりがHPに書かれていました。
元寇の時に、当社の神剣が博多の櫛田神社に送られて合戦の時に、数千万のヘビが海上に浮かんで戦いを勝利に導いたのだそうです。
元寇の際、博多へ神剣を移して祈願した記録が「櫛田大明神縁起」にある。
就中(なかんづく) 弘安年中に蒙古勢襲来の時 櫛田の御託宣に曰く「われ異国征罰の為に博多の津に向かう。
我が剣を博多の櫛田に送り奉るべし」と云々。仍てこれを送り奉る。ここに博多の鍛冶岩次良霊夢あるによりて、三日精進して御剣をとぎ奉る。これを箱におさめ白革を以て三所ゆい封をなして神殿に納め奉り畢ぬ。
即ち蒙古合戦の最中筑前国志摩郡岐志の海上に、数千万の蛇体浮かび給う。万人の見知其の隠れなし。また、三ヶ月の後、末社櫛田の社壇に疵を蒙る蛇体多く現じ給う。即ち御託宣に曰く「各疵を蒙ると言えども、蒙古既に降伏して帰り来る」と云々。
仍て神埼本社の神仁等数百人、かの岐志の浦に発向して迎え奉り畢ぬ。
その後更に十三年を経て、かの御剣を本社に遷入れ奉らん為、神埼の神仁いむ田太良以下数百人、博多の櫛田に参向して件の箱の封を解きし処に、蛇体御剣を巻つめて頭をつばの本に打ちかけて、殆ど倶利伽藍明王の如し。見聞の諸人渇仰肝に銘じ、随喜の涙袂をしぼると云々。
蛇は当社の眷族となって大活躍をしています。身代わりになって傷だらけになったというのは痛々しいですね。
吉野ヶ里
さて、当初の目的、景行天皇と吉野ヶ里の関係については分かりませんでしたが、当社に出雲神話が伝わっていることから連想して思い出したことがあります。
それは吉野ヶ里では銅鐸が造られていて、同じ鋳型で造られたものが吉野ヶ里と出雲から出土したということです。吉野ヶ里が出雲系かどうかは分からないのですが、無関係では無いといえます。
一方、先述したように櫛田宮では「スサノヲ・クシナダヒメ・足ナヅチ手ナヅチ」という出雲の神々が祀られる時代もありました。
櫛田宮と吉野ヶ里間の間はわずか徒歩15分。

吉野ヶ里はどうしてこれほどの厳重な守りをしなくてはならなかったのでしょうか。それは戦いが常にあったからです。敵は遠くはない。
これらから考えたことをまとめると、当宮は古代には重要な所で争奪戦があっていた。弥生の末期に景行天皇やヤマトタケルがやって来て、当地を占拠した。あるいは奪還した。
何故ここが重要だったのか。
それは西を流れる城原川(じょうばる)にヒントがあると思います。有明海から入ってきた外洋船が停泊できる良港があったのではないか、そしてその湊の争奪戦があったのではないか、そんなストーリーを思いつきました。
風土記では櫛田宮の北西に湊があったと伝えています。
さて、このシリーズは風土記の流れに沿いながら書いていますが、ここからさらに西に行くと、佐賀、杵島となります。風土記は松浦も紹介しています。気が付くとこれらは既にブログにUPしていました。
風土記の半分以上を逍遥したことになります。 (@_@)
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昔の汀を今の10mラインで取ると、吉野ヶ里遺跡は海に突き出た鼻の付根辺りに広がります。櫛田宮周辺の陸化がいつごろか知りませんが、西側の城原川は、北に迫る山並みのすぐ近くまで海水が上がっていたように見え、櫛田宮の北西に港があったという伝承は頷けます。
吉野ヶ里は城原川・田手川の川筋、そして海と、三方を湿地に囲まれた自然の要塞の姿をしていたと思います。ここに拠点を築いた移住者達は、次に背振山地の川沿い(今の国道385号線)を北進し、那珂川町周辺に次の拠点を展開していったと想像します。
有明海側から北へ進んだと思う拠所は、南十字星・普賢岳から北内郭を結ぶ線が最初に引かれたもので、背振山地を越えて普賢岳は見えなくなっても、南十字星を目印にこの線は伸長され、新たな拠点がこれに沿うように造られたと、今に残る神社を見て思ったからです。0.5度くらいのぶれを許容すれば香椎宮まで届くのですが、これは行き過ぎでしょうか。
ついでながら、北内郭の西約3.5km、帯隈山の南側に熊本という地名がありました。小高い丘のような地形に見えましたが、真鍋の言う星見台「隈本」でありましょうか?
“「くまもと」とは観星台 京都の門の開閉時間の基準は熊本にあった”
に詳しいです。空をくまなく観察する観星台のことと真鍋氏が記しているのですが、地形の特徴については言及していないようです。朝倉にも隈本地名があるんですね。探せばいくつもありそうで、また面白い展開が期待できます。
ついでではありますが、6/22の投稿で「南十字星・普賢岳から北内郭を結ぶ線が最初に引かれたもので、」の部分で「北内郭」を「墳丘墓」に訂正させてください。古いのは墳丘墓のほうなので(^^;
さらについでにですが、香椎宮の画像を見ましたら、社殿の向きが普賢岳方向です。意図的に向けられたのか、他の建物も大よそその方位です。そういえば、るなさんの2009.10.24の記事に
“香椎宮 (Ⅱ) 古宮はスピカを祀る日振宮(ひふりのみや)だった”
があって、香椎宮とスピカのことが詳しく書かれていました。普賢岳ラインとスピカはどう繋がるのでしょう。吉野ヶ里の時代はまたスピカの、そして香椎宮(古宮)の時代でもあったわけですが・・・
確かに、引かれたラインを見ていると、中央の祭祀施設は太陽線からずれてしまい、やはり8度線にこだわって造られているのがはっきりとしますね。
おっしゃる通り、古代から道が通じていた那珂川町との深い関わりがある可能性が高くなってきました。
両方を比較することでさらに詳しいものが見えてくるかもしれません。
逆です。
「隈本」が「観星台」です。
地形は丘とは限らないので、「クマモト」という地名があったら、星の観測が出来る地形だろうか、と調べて行く必要があります。
五社神社をグーグルアースで見ると、湿原の中の島のように見えますね。祭神とか調べていくと、観星台かどうか、明らかになるかも知れません。
豊鍬入姫命だったんですね!なるほど。ネットで調べると、出自が紀伊国ということなので、佐賀に縁が深い方ということで、祀られているのでしょうか。
クシナダヒメのことは不思議で仕方がありません。古い信仰に上書きがあっても、辛うじて残った祭神ではないかと思いました。
出雲の話は筑紫に多いですが、佐賀にも出て来たので、驚いています。地名が残っているとのことで、フィールドワークすると、何か分かるかもしれません。
櫛田宮に参拝した時、創建が吉野ヶ里遺跡が止まった直後くらいだったので、大和政権の別の政権のクニである吉野ヶ里が、大和政権に滅ぼされて、櫛田宮ができたのではないかと妄想しておりました。
竪穴式住居は吉野ヶ里の特徴ですが、これは大和政権のクニではなかなか見ることができず、土蜘蛛「土の中に住む」部族、すなわち吉野ヶ里の人々のことを大和政権側が蔑称として読んでいたのではないかと思います。








