2015年 06月 22日
佐賀(29)ソグド人がやって来た?神埼西郷
ソグド人がやって来た?
神埼西郷
「佐賀神埼」の記事を書いている最中、朝、手にした本からパラリと落ちて来たコピー。そこには「神埼西郷」という文字がありました。それは真鍋の本のコピーでした。
神崎に「西郷」がある?
地図を見ると、櫛田宮の西、城原川の対岸にありました。
コピーには「佐伯」「ソグド」「シルクロード」の文字も。
それはずっと理解できないページでした。
ところがその夜、真鍋の本を手に取ってたまたま開いたページに「佐伯」の文字が。
こうして、バラバラに書かれていた内容が繋がった不思議な一日がありました。これが先日ちょっと書いた「渡来した人」のことです。今日はこれをブログに書くことにしました。
「西郷」
その地名はソグド人が「別所」を設けていた所だと真鍋は伝えています。
「別所」は記憶があいまいですが、確か「湊」だったと思います。
渡来人たちの足跡は湊からスタートします。渡来人ごとに棲み分けがあり、その名残が地名に残っているということです。それがいよいよ具体的に分かって来ました。
まずは、出て来たコピーの一部を紹介しましょう。
常陸国風土記 茨城郡の条に曰く
山の佐伯(さへき)、野の佐伯、自ら賊(あた)の長と為り、徒衆(ともがら)を引率(ひきい)て國中を横しまに行き、いたくかすめ殺しき。
藤原宇合(うまかひ)(694~737)の名文に成るこの記述は、近東のアンティオキヤから長安をへて、遂に石岡までのシルクロードを開拓したソグドの氏族の片鱗を窺わせる。
西条(さいじょう)の地名は播磨加古、備後比婆、安芸賀茂、阿波板野、伊予新居(にい)、三河幡豆(はづ)、安房安房(あわ)、安房長狭(ながさ)にみられる。これが倭人が翻訳翻案したシルクロードの道路(みちすじ)であった。
西郷の地名は摂津豊能(とよの)、伯耆東伯(とうはく)、隠岐周吉(すき)、筑前宗像、肥前神埼、肥前高来、大隅姶良、美濃本巣(もとす)、三河渥美(あつみ)、遠江小笠(おがさ)が挙げられ、もって佐伯の氏族の別所であった。 拾遺p167
要約すれば、
ソグド人はシルクロードを開拓した氏族であり、日本では佐伯といい、茨城県石岡市まで足跡を伝えている。地名は「西条」別所は「西郷」という。
ということです。
ウィキペディアには、
ソグド人は中央アジアに住んでいたイラン系の農耕民族で、かつてはシルクロードを経済的に支配していた、
と書かれています。
ソグド人は日本では佐伯という名で呼ばれていたので、風土記に書かれた佐伯はソグド人たちだったということになります。
「西条」(さいじょう)「西郷」(さいごう)の地名は佐伯(さいき)の拠点だったということです。いわゆるソグド人コロニ―です。
ウィキぺディアによると、ソグド人は中国では「康・安・米・史・何・曹・石・畢・羅・穆・翟」という姓を与えられ、それらを一括してソグド姓と呼んでいます。
「ソグド」は『魏書』では「粟特」(そくどく)と書かれています。それが日本では「粟の国」を連想させます。佐伯姓は瀬戸内海を中心に分布しています。

それでは佐伯(さいき)の「き」とは何かというと、「技術者」の古称だそうです。
佐伯氏は何の技術者だったのかというと、これが夜に開いたページに書かれていたのです。それは「池の造成工事」でした。
佐伯なる氏族は北方の胡族であって、よく湖を見出し、井を造る特技があった。
『古事記』景行紀には倭建命(やまとたけるみこと)から分かれた讃岐の綾の君の名が見える。日高見国(ひたかみのくに)から抜擢してつれてこられた北人(あへひと)の系統である。
単于(せんう)なる胡人であって、火山地域に住居を求めた民族であった。
讃岐の地にはまだ随所に旧噴火口が露出していた。従ってここが九州を別にしては、四国でただ一つの北人(あへひと)の集中的居留地であり、やがて周囲から隔絶されて自滅する運命にあった。
後に空海(七七四~八三五)がこの系統から出る。幼名を真魚(まを)と言う。数百年昔の祖先が築いた池に棲みついた大魚に因んだ名であったかもしれない。又蝦夷(あへぬ)、即ち毛人(まおひと)に由来したところかもしれない。
佐伯氏は旱魃の地方が出るたびに諸国に分散して、池の造成工事を掌握した。時には旧火口から溢れる水脈の涸れざることを祈る神官ともなり、その家系が今に及んでいる。『儺の国の星拾遺』p177
「佐伯氏は旱魃の地方が出るたびに諸国に分散して、池の造成工事を掌握した」ので、各地に友好的に融合していったと思われます。空海はその末裔に当ります。
空海の時代までその技術が伝わっていたのかと思うと納得です。
「単于なる胡人」の「単于」はここでは「北アジア遊牧国家の初期の君主」で、「胡人」とは中国から見て「西方の異民族」です。ソグド人は胡人に含まれていました。
佐伯氏の得意な物がもう一つありました。それが「占星術」だったのです。
佐伯の氏族はよく星を祀り占いをもって身を立てた。倭人は石位により時を量るのみに終始するから、信仰と生活の面でとかく意見の合わぬことが多かった。拾遺177
「石位」とは星座のことです。
倭人が「石位」(星座)で時や季節を知るだけだったのに対して、佐伯氏は「星祭りと占星術」に長けていたのです。
ここまで解読した時、吉野ヶ里のあの北内郭を思い出さずにはいられませんでした。
吉野ヶ里が紀元前から発展していくなかで、紀元三世紀頃前に北内郭が建造された訳ですが、それを調べれば調べるほど高度な天体観測の痕跡が出てきました。

現代人が天文ソフトを駆使して初めて理解できる観測技術をもたらしたのは誰か。
Tatsuさんは、コメントで「交渉から納入・運用まで行う総合貿易商社的な性格を持つ組織」の存在を示唆されましたが、シルクロードの経済を支配し、中国では一大勢力ともなったソグド人がまさに該当することに気付きました。
そして、そのコロニーの別所「西郷」が城原川を隔ててわずか一キロ強の所に存在することから、彼らは北内郭建設の一翼を担った可能性があるのではないかと思いました。
あまりにも辻褄が合いすぎて、出来過ぎかな、と悩みました。
北内閣の技術提供者は佐伯氏なのか、物部氏なのか、あるいは共同作業があったのか、はたまた全く別の氏族の成果なのか、具体的な氏族名で考察できるようになって、かえって困惑していたのです。
今日は、夏至。
2000年前の今日、吉野ヶ里ではきっと夏至の祭をしたことでしょう。
2015年の夏至は朝からずっと曇で、涼やかな一日でした。「かひ族」にとって、日本の夏至は梅雨と重なり、思うような観測が出来なかっただろうな、と例年思います。
夏至の日没の光は福岡筥崎の参道も貫いて、神鏡を輝かせると聞きます。
(今は少しずれているらしい)
さて、胡人の渡来のルートはずっと同じではありませんでした。
胡人が日本に自由に渡来できた時代は燕(前1123~前222)代で終焉した。韓人が半島を占拠してからは、胡人は全く倭人と隔絶されて、日本はあたかも韓人の自由に往来できる別天地に変わった。
陸封された胡人の子孫が西の熊襲であり、東の佐伯であった。『儺の国の星拾遺』p177
ソグド人が日本に自由に渡来出来たのは弥生時代前期ごろまで。海北道が利用できなくなって佐伯は陸封されたとあります。
しかし、彼らは南海道を使ってでも日本にやって来た。
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何故マニ教会に行ったのか。
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