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ひもろぎ逍遥

佐賀(31) 白角折神社・ヤマトタケルは矢を射た

佐賀東部神社と古墳(31)

白角折神社

おしとりじんじゃ
ヤマトタケルは矢を射た

景行天皇は吉野ヶ里のすぐそばまでやって来たのですが、はたして戦いがあったのかどうか、櫛田宮の縁起からは分かりませんでしたが、思いがけず、出雲を思わせる伝承に出会いました。

さて、景行天皇の皇太子がヤマトタケルですが、彼もまた当地に来ています。その足跡が城原(じょうばる)川を遡った所に残っていました。白角折(おしとり)神社と言います。



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上流からアプローチしています。右手の杜が目的の白角折神社です。





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一の鳥居に「白角折神社」と彫られています。






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拝殿です。祭神は日本武尊。


熊襲征伐の時に、ここから的に向かって矢を射たという伝説があるそうです。
「的」は「いくわ」という地名で、城原川の対岸にその名が見えます。

「いくわ」といえば、「浮羽」(うきは←いくは)と同じではないか!と思って、地図を見ると、隣には「志波屋」という地名までもがあります。「志波」は朝倉の地名です。

どうも、この地は筑後川の軍団がいたことを思わせる地名や伝承があるようです。


それについて、「かんざき@NAVI」に具体的に書かれていました。

白角折(おしとり)の名称は、日本武尊が熊襲征伐のときに白角折神社から的に向かって矢を射たという伝説から幣作りのおしとり部と関連があるという説、西方の国を制圧するときに鳥が白い角を持ってきて、戦況が有利になったことから「おしとり」と呼ぶようになったという説があります。

歴史的には、7世紀頃、大和朝廷は朝鮮半島の緊迫化により、九州に多くの軍事的部民(*1)を配置しました。
神埼町竹原地区は、かつて戊久米里(つちのえくめり)と呼ばれ、その時代背景と、地名の久米から、軍事的部民の久米部の存在が推定されています。

神社に近接する的(いくわ)という地名の由来も、軍事的部民的部との関連が考えられることから、武神としての日本武尊(ヤマトタケルノミコト)がお祀りされたのではないでしょうか。
*1 朝廷や豪族に隷属し、労役や生産物を貢納した人々の集団

http://www.kanzaki-museum.com/feature.php?mode=show&id=2

「白角折」と書いて「おしとり」と読ませるのは不思議ですが、「白」と「とり」から、ヤマトタケルの白鳥伝説を思い出さずにはいられませんでした。

ヤマトタケルは死んだあと白鳥になって飛翔します。その白鳥を泣きながら追っていったのが后(きさき)とその御子、すなわち仲哀天皇です。

この話ののち「白鳥」はヤマトタケルのシンボルとなります。

ヤマトタケルを象徴する「しろとり」が「おしろとり」→「おしとり」と変化したのではないかというのが、るな的発想です。「角」は憶測ですが、対岸に「角地」という寺院名が見られることから、戦いの歴史が絡んでいるのではないかという気がしています。


的(いくわ)軍は景行天皇の時から天皇軍寄りですから、ヤマトタケルの時も側近の中にいたと思われます。道案内が出来たかもしれません。

これまた全くの憶測ですが、ヤマトタケルはこの「北」にある山にいた異敵と戦い、勝利したのち、駐留した的や志波の軍隊の陣営が地名になったのではないでしょうか。

「北」には何があるかというと仁比山神社が現在あります。そこの主祭神は「大山咋命」です。天平時代の勧請ということで、これ以前のことは分かりませんが、この神は吉野ヶ里の中央に取り残された日吉神社と同じ神なのです。

ここに消え去った歴史のヒントがあるように思われますが、文献が見当たらないので、これ以上踏み込むことが出来ません。


吉野ヶ里遺跡に出土する青銅の製品や、材料として残された錫(すず)の塊を思うと、それをどこで採掘して精錬したのかという研究課題が残っています。

吉野ヶ里のクニは鉱物資源の採れる山を掌握していたに違いありません。その山とはどこか。それがヤマトタケルが矢を射た「的」がある山だと考えられます。

ヤマトタケルは景行天皇の命を受けて、父が制覇できなかったクニの一掃を狙って再び派遣されたのでしょう。

その名残が白角折神社の伝承ではないでしょうか。結果がどうなったのか、的や志波屋の地名があることから、勝利して軍の一部を留めたのではないかと考えることもできます。


この時、そばに仕えたのが竹内宿禰です。竹内宿禰はヤマトタケルより少し年下ですが、まだ二人とも十代。この後、二人は真手山の熊襲タケルと戦ったことはすでに紹介しました。その途中、立ち寄ったのが当地だろうと考えています。


日田の方からコメント欄で質問がありましたが、景行天皇は佐賀や筑後、日田などにあるいくつかの女王国に対して、占領されるか、滅ぼされるかという二者択一を迫ったのだろうと考えています。

拒めば殺され、降伏すれば哀しき女神として祀られたりしたのでしょう。その一例が神功皇后伝承にも出てくる葛築目(くずちめ)や、神夏磯姫です。

そして王国には熊襲タケルの名が伝わっています。




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これは境内の千年の楠。




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また、境内から外を見ると、三角の特徴的な山々が見えます。地図から判断すると、帯隈山、早稲隈山、日の隈山のいずれかが見えているようです。

この山にも歴史を解く手掛かりがありそうですね。





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これは神社の東の城原川から上流域を見た所。「北」の方面です。
そこに「的」と言う地名があり、仁比山神社があり、角地地蔵院、稲荷神社があります。

 あの有名な九年庵がある所といえば、ピンときますね。







白角折神社







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Commented by くじら at 2015-06-27 07:16
久留米市の伊勢天照御祖神社の池町川を挟んだ所に、同じ名前の神社が鎮座なされています。こちらでは、「しらとり」とよばれています。久留米市中心部を貫く池町川も、明治までは白鳥川と呼ばれていました。
Commented by lunabura at 2015-06-28 22:08
池町川が白鳥川だったとは \(◎o◎)/!
また伊勢天照御祖神社の対岸とは、これまた大事な所ですね。
いつも情報、助かります^^
Commented by dostoev at 2015-07-01 18:56
「白角折(オシトリ)」は、「倭文(シトリ)」じゃないですか?尊称の御を付けての「御倭文(オシトリ)」かも。櫛田宮は三所大明神を祀り、一つは櫛田大明神、一つは高志大明神、そして一つは白角折ですが、高志はヤマタノオロチイメージしますし、倭文神社の多い茨城県を調べると、本来は蛇神であったよう。「常陸国風土記」では、角のある蛇は夜刀神と呼びますが、角が折れれば普通の蛇?どちらにせよ、櫛田宮は蛇神を祀る神社だと思います。
Commented by lunabura at 2015-07-01 20:36
倭文神社、こちらでは見かけないので検索しました。織物関係の宮なんですね。
櫛田宮は博多山笠で知られる櫛田神社との縁もあるのですが、そちらの主祭神は大幡主神。これが元宮の櫛田宮に方に出てこないのが不思議なのですが、古層を考えるのに、仰るような観点が必要のようですね。
元寇の時に櫛田宮の蛇が助けたというのも、その仰る蛇なのでしょう。

ちなみに、社家は大伴氏。金村の九代目です。この時代に櫛田宮は大きく変化したのかもしれません。
by lunabura | 2015-06-26 21:23 | 佐賀東部の神社と古墳 | Comments(4)

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