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ひもろぎ逍遥

佐賀東部(32) 鰐神社・王仁博士が上陸した

佐賀東部神社と古墳(32) 

鰐神社
王仁博士が上陸した


前回までの景行天皇、ヤマトタケルの時代も終わり、次の仲哀天皇と神功皇后の時代も終わった頃、吉野ヶ里遺跡はしばし無人となりました。

そして、その西を流れる城原川流域(神埼町竹原地区)には久米部、的(いくわ)など、軍事的部民が栄えました。


そのエリアに鰐神社(王仁神社)があります。王仁博士が上陸したと伝わる宮です。




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訪れたのは昨年、花の盛りの頃。






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藤の花が美しい季節でした。









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拝殿の奥に二つの祠があります。







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その一つが鰐大明神です。





説明板には次のように書かれていました。

鰐(わに)大明神と王仁(わに)天満宮
 この神社の創建は定かではないが、正面の鳥居は元禄十二年(1669年)に氏子三村から寄進されたものです。

 御祭神として鰐大明神と熊野三社が祭られているところから渡海者の安全を祈願されたものと思われますが、当社には王仁天満宮と刻まれた小さな石祠も祭られています。

 「王仁」というのは、4世紀後半に応神天皇に招かれて百済から多くの技術者集団をつれて渡来されたと古事記、日本書紀等に記載され、日本に初めて漢字の手本である「千字文」と儒教の原典である「論語」を伝えた王仁博士ではないかと思われます。

 王仁博士の一行は朝鮮半島の南西端にある木浦の湊から渡来したと伝えられていますが、日本のどこに上陸されたかは記録もなく不明です。

 もし、吉野ヶ里の渡来人と同じく目の前の有明海から北上したとすれば、ここ竹原地区付近に上陸したと思われ、ロマンに満ちた夢は大きくふくらんできます。
                                      神埼市 
                                      神埼市観光協会
 
ここは王仁博士が上陸したところでした、

説明板からは、朝鮮半島と佐賀を結ぶ航路の存在が伺えます。この航路については、他に百済王子が杵島に亡命した話もあることから、連絡が密にあったように思われます。

もちろん徐福も来ていますし、孔子廟などもあり、中国の文化が今も生きているのが感じられます。佐賀は先進の文化で栄えた所でした。

この鰐神社がある地域も軍隊を駐留させていたのは、大事な地域だったということを意味しています。

警護に安全な地域だったからこそ、王仁博士を上陸させたということです。


さて、「王仁博士」は名前を知っているだけなので、にわか勉強で記紀を読んでみることにしました。

読むと、『古事記』の方では「和邇吉師」(わにきし)と出てきました。

(応神天皇の御世に)新羅人が参り渡って来た。建内宿禰命はそれを率いて堤や池を作らせて百済池を作った。

また、百済の国主照古王が牡馬、牝馬それぞれ一頭ずつ阿知吉師(あちきし)に付けて献上した。また横刀(たち)および大鏡を貢いだ。

また百済国に対して、「もし賢人がいたら献上せよ」と命ぜられた。すると和邇吉師に論語十巻、千字文一巻あわせて十一巻を持たせて貢上した。

とあります。

この和邇吉師の一行には酒を作る人なども同行して賑やかだったようです。その上陸地が佐賀東部ということになります。

都はいったい何処なんだろう。奈良は遠すぎない?

壱岐真根子が都へ護送される時も、唐津から南下していましたね。都が奈良の方にあるなら山口に上陸する方が便利なのに。

都は何処?


それでは『日本書紀』はどう書いているんだろう。

応神十五年8月6日、百済王は阿直伎(あちき)を使わして二匹の良馬を貢いだ。そこで軽の坂上の厩(うまや)で阿直伎に飼わせた。そこを厩坂という。阿直伎は経典が良く読めたので、皇太子の菟道稚郎子(うぢのわきいらつこ)の師とした。

天皇は阿直伎に「汝より優れた博士はいるのか」と尋ねると「王仁という者がいます。この人は優れています」と申し上げた。

そこで、上毛野君の祖、荒田別・巫別(かむなきわけ)を百済に派遣して、王仁を徴用した。阿直伎は阿直伎史の始祖である。

応神十六年2月に王仁はやって来て、皇太子菟道稚郎子の師となった。皇太子はもろもろの典籍を王仁に習われた。よく理解された。いわゆる王仁は書首(ふみのおびと)らの始祖である。

と、『古事記』とほぼ同じ内容を書いています。

で、王仁が持って来た「千字文」に関しては時代的な矛盾があるというので、ウィキってみると、

「南朝・梁 (502–549) の武帝が、文章家として有名な文官の周興嗣 (470–521) に文章を作らせたものである。」

とあり、応神天皇の時代より後に成立しているのが分かりました。その矛盾に関しては、いろいろと説がありましたよ。


さて、王仁は「皇太子・菟道稚郎子」の師となったんですが、
ウヂノワキイラツコ…この人を祀るのは志賀島の山の中と、宇佐神宮、入ってすぐ右の宮でした。

ずっと気になっている、謎の皇太子です。『古事記』を読むと、いったん天下を治めたように書かれていますよ。歴史的には次の天皇は仁徳天皇です。

この辺りは矛盾がとても多いんですね。最近の研究者の方々の追及で、教科書で習った話は通用しなくなりつつある感じがしています。


また、この記事を日本初の漢字の渡来だとする、無理な解釈も存在していました。記事に初めて書かれているから「初めての渡来」とするのは間違った解釈です。「初出の記事」とするのが正しい。

卑弥呼なんか、中国へ手紙を送ったり、返書を貰ったりするんだから、漢字読めないと困るよね (^_^;)

もう、この辺りの記紀の記事、つっこみどころ満載ですが、るな的には「ぶらぶら」の精神を貫いて(?)そろそろ佐賀東部をおいとましようと思います。

と言いながら、この辺りに詳しい愛読者さん、ご意見をいただけたらいいな。
と、人使いの荒いブログ主は思っているのでした (+_+)




さて、『肥前国風土記』の続きに関しては、すでに書いている
「ヨド姫の宮巡り」
「真根子と竹内宿禰」
で、あらましが分かります。サイドバーからどうぞ。


また、(1)から(32)まで続けて読む方はサイドバーもしくは下の「佐賀東部の神社と古墳」をクリックしてご覧ください。


ブログを見て佐賀の古墳や神社巡りをした方が何人もあります^^
ドライブのお伴に『ひもろぎ逍遥』ってことでしょうか ^^









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Commented by チェリー at 2015-07-02 00:59 x
lunaさん、こんばんは。
鰐神社には、八女市の童男山古墳から 300°というラインが引けました。とても高精度で、誤差がゼロかもしれない…関連があるとおもしろそうですねぇ…
Commented by lunabura at 2015-07-02 23:45
思いがけないラインですね。
気脈を通じているとしたら、佐賀と八女に徐福伝説がある理由が説明できるかもしれません^^
by lunabura | 2015-06-30 20:40 | 佐賀東部の神社と古墳 | Comments(2)

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