2015年 07月 07日
志登支石墓群・倭は朝鮮半島まであったみたいだけど
志登支石墓群
倭は朝鮮半島まであったみたいだけど
志登神社の近くに志登支石墓があります。志登神社から歩いていったはずの豊玉姫の岩の近くに支石墓があったことを記憶していたので「志登支石墓」のことばに引かれていったのですが、結果的には違っていました。
せっかくですから、ご紹介。
近くで農作業している方から志登神社からは一キロほどと聞きました。その時点で探している所ではないと分かったんですが ^^
川の向こう岸にありました。

全景です。田畑の間、少し盛り上がった地点が耕されずに残っていました。

何を撮ったのかよく分からない画像(^_^;)
多分、探しているものではなかったので、ほどほどに撮ったみたい。

で、志登神社の真裏から見える山をここでも発見。皆さんから今山だと教えていただきました。今山は遺跡もあるから、いつか行ってみたいですね。

反対側は糸島富士、可也山が見えています。この日はpm2.5がひどくて、かすんでいます。最近の画像は晴れていても、こんなのしか撮れません(/・ω・)/

説明板に出土品の写真がありました。分かりやすくていいですね!
で、気になるのが右下の石鏃です。
「柳葉形磨製石鏃」というそうです。かなり高度な磨き込みですが、説明板にはこうありました。
「柳葉形磨製石鏃」は朝鮮半島で出土するものと良く形が似ており、支石墓と一緒にこの地に伝来してきたことがわかります。志登支石墓群は、大陸・朝鮮半島からもたらされた弥生文化のはじまりを知るうえで重要な遺跡といえます。
で、何が気になるのかというと、「支石墓と一緒にこの地に伝来してきた」という部分です。
朝鮮半島には[倭]があったことが『三国志』に書いてあるんですね。
『三国志』といえば「魏志倭人伝」が載っている本ですが、邪馬台国ばかりが話題になりますが、「韓」を何気に読んでいると、こんなことが書いてあるんです。
韓は帯方郡の南にあって、東西は海まで続いている。南は倭と境を接している。
弁辰の国々は鉄を産出し、韓、濊(わい)、倭の人々はみなこの鉄を取っている。
弁辰の瀆盧(とくろ)国は倭と隣り合っている。
どこにどの国があるのかよく分からないのですが、韓と倭は隣あって接していると書いています。
これって、もともと倭国が日本列島と朝鮮半島の南の範囲にあったということを意味していませんか?
任那(みまな)をあれほど取り戻そうとしたのは、倭国の一部があったからではないかな?
また、出土品の何もかもが朝鮮半島から南下したのでしょうか。
文化は双方向で交流したのではないか、という発想はないのでしょうか。
ある考古学者は数が多い方が中心地だと言われましたが、そうでしょうか。
福岡では出土しながら葬られてしまった遺跡を山ほど見てきました。福岡にはカウントされない遺跡や古墳がどれほどあるのか。出土品はどれほど失われてきたことか。
先日も岡本遺跡の所から多紐鏡の鋳型が発見されて、文化南下説の見直しが迫られました。
支石墓も別の所では倭人が埋葬されていたものがあるといいます。
素人だから言います。
これまでの学会内の因習を乗り越えて、科学的な分析を国民に提供してください。
と、思いながら帰路に付いたのでした。
あ~あ、言っちゃった (´・ω・`)
糸島市志登
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今山は元々「異魔山」と呼ばれてて異なる世界の魔物(外国からの侵略者?)からの防衛拠点だったとか
防衛用の武器の整備や製造の後も見つかってるらしいです
江戸時代は黒田藩の文献が保存されてて代々守ってきた一族の方もいらっしゃいました
晩秋には銀杏の落ち葉で黄色のカーペットの階段で綺麗です、危ないですけどw
今山は横浜の分かれ道の所にあるんですね!
地図を見ていると、凄く面白い地形をしていてびっくり。
先住民が今山で工房を持っていたのを、山幸彦が矢を射て脅して乗っ取ったのか、なんて、妄想してしまいました (^_^;)
銀杏のカーペットの話を聞いたら、是非とも行きたくなってしまいました ^^

少しずつフィールドワークしたい所です^^