2015年 07月 26日
高良山の「一火」・三種の神器の行方・神籠石の呼称を戻さねば
高良山の「一火」
高良玉垂宮神秘書より
三種の神器の行方
神籠石の呼称を戻さねば
仲哀天皇の崩御後、三種の神器はどうなったのだろう。
そんな謎が頭の中からはすっかり欠落していましたが、『高良玉垂宮神秘書』を読むと、三韓征討後、安曇磯良の操縦する龍船が有明海経由で風浪宮に至るまで、共にあったと書かれていました。
三種の神器の中の「神璽(しんじ)の玉」―即ち、「八尺瓊(やさかに)の勾玉」を「高良大菩薩」は預かっていたと「神秘書」は伝えます。
『神秘書』は中世末期に書かれたものです。その当時から千年以上もの間、語り継がれた物の中には真実も残っているし、書き換えられたものもあります。
特に、「高良大菩薩」に関しては、安曇磯良、武内宿禰、住吉大神、と変遷していきます。
当初の高良大菩薩が安曇磯良である証拠は、大菩薩が風浪宮で浪風の神を祀ることから、明らかになりました。
浪風の神とは綿津見の神のことです。この神を祀るのは安曇族しか出来ないので、「高良大菩薩」は安曇磯良しか有り得ないのです。
福井県の気比神社にも、わざわざ安曇連が龍宮の海の神を祀りに出かけた話がありますが、これも他の部族ではよその神を祀れないことをよく伝えています。
綿津見の神を武内宿禰が祀ることは出来ないのです。風浪宮でも、仮宮を作ったのは武内宿禰ですが、綿津見の神を祀ったのは磯良でした。
また高良大菩薩に奉納する布に「覆面」の絹が含まれていることが分かりました。「覆面」こそ、磯良神のシンボルでしたね。
磯良は干珠満珠を海神から借り受け、武内宿禰に渡したので、新羅からの凱旋の時、龍船には「神璽の玉と干珠と満珠」の三つの勾玉があったことになります。
外洋船である龍船は大善寺玉垂宮に置かれ、小舟で高良山に皇后たちはやってきます。

こうして、高良山には一時期、「三つの玉」が揃いました。これが神霊の力を発揮したというのです。その霊力を「一火」と呼びました。(読み方は書かれていません)
この「一火」について書かれた214条を今日は紹介します。(るな訳)
当山の「一火」は大菩薩が神璽の玉を、異敵を攻めた時から皇宮に行くまで預かっておられた。また干珠満珠を龍宮から借りて異国を平らげた。
これら合わせて三つの玉の霊力は高良山を一火として照らし、上宮御殿を出て八ヶ寺を巡り、鷲尾を下り、瓦礫場のそばに下り、八葉の石畳を巡り、もとのように上宮御殿に留まった。
もしこの火が消えることがあれば、当山は滅亡する。二、三日照らさなければ必ず苦節が来る。
高良山に伝わる「一火」は神霊の力となって、(原文は「威力」)高良山を照らし、上宮の神殿から出ると、麓まで下り、「八葉の石畳」を廻って再び神殿に戻ったといいます。

この「八葉の石畳」は考古学者が「神籠石」と名前を変えて紹介したので、本来とは違うものを指すようになってしまいました。
「神籠石」とは「神が籠る石」という意味で、高良山にある巨大な磐座なんですね。

(この画像一杯の岩盤が神籠石です)
「神秘書」では列石の方を一貫として「八葉の石畳」と書いています。これは結界でした。

これを山城と考えてしまうと、パネルのような薄っぺらな石の説明が出来ません。

防御の戦略も考えられませんね。
これは、本来の呼称「八葉の石畳」に戻すべき課題となってしまいました。このすり替えによっても、歴史が正しく見えない原因になってしまっています。
こうして、数行の話なのですが、沢山の説明を要して、どう説明したらいいのか、悩んでいました。
さて、話を戻しましょう。
この「一火」が消えるとき、高良山は滅亡するというのです。驚きの話でした。
そして、これを山上の「一火」とすると、麓にも「一火」があったということが書かれていました。(つづく)
ガイドブックをお持ちの方は「上巻26高良玉垂宮」「下巻77風浪宮」をどうぞ。
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まさか、日程が重なるとは思っていませんでした。








