2015年 08月 06日
神秘書・神功皇后の船は三本マストの竜骨船だったのか(1)
神功皇后の船は
三本マストの竜骨船だったのか(1)
神功皇后の船にまつわる各地の伝承に「帆柱」の伐採の話が沢山出て来ます。それは主に周防灘を中心として豊前から下関にかけてです。特に北九州の「帆柱山」という山名は神功皇后の船に使った帆柱を伐採したことから付いたことで有名です。
これは新造船ではなく、朝鮮半島まで渡航して戻って来た船の帆柱が折れていたので修理をしたのですが、それを選んだ木が生えていたのが帆柱山だったのです。(下巻92仲宿八幡神社)
仲宿八幡神社の宮司さんは熊鰐の末裔で、その修理の現場が境内だったと教えて下さいました。
弥生時代末期に帆柱を持った船が存在する?
それではその帆はどうした?
それは福津市の縫殿神社で造ったのでした。(上巻5縫殿神社)
さて、神功皇后伝承地で何十か所も伝える帆柱の話ですが、考古学会では古代の船はどのようなものと考えられているのでしょうか。
弥生末期の魏志倭人伝に書かれた邪馬台国への海上ルートを実際に船で渡る実験が行われましたが、それは手漕ぎ船でした。
魏の時代は帆船があったのに、倭国へ渡る時には手漕ぎにした、と学界で考える理由は不明です。

また、阿蘇ピンク石で造られた石棺を奈良まで運ぶのにも、実験船は手漕ぎでした。

先日、七支刀を見に行った九州国立博物館に白村江の戦いのイラストがあったのですが、唐の帆船に挟まれていた倭国の船はこれも手漕ぎ船でした。
水手(かこ)全員でボートを漕いでいて隙間がなく、戦闘員や大将は何処に座ったらいいのか、武器は何処に置くのか?水や食糧は?疑問が沢山浮んだイラストでした。
博多や松浦からせっせと手漕ぎ船で漕いでいくのは勝機のない戦略です。でも、これが学界の最新の研究結果として堂々と大きなイラストにされたのだと思います。
しかし、「帆柱」のイラストは既に熊本の装飾古墳に描かれているので、最低でも、古墳時代には倭国に存在していました。
渡来人であるフェニキア人やエジプト人、トロヤ人、エトルリア人、ソグド人、徐福、大陸人、などなど。それらは手漕ぎのボートピープルではありえません。彼らは帆船に乗り、その技術はすでに倭国にもたらされていたはずです。
仲哀天皇の都のあった下関の忌宮神社(いみのみや・上巻1)に秦の始皇帝の末裔である功満王が帰化していますが、手土産として養蚕をもたらしたことが記録されています。が、彼らが乗って来た船の造船技術ももちろん新造船に反映されたと思います。
功満王は船の建造、あるいは修理が出来る人を必ず連れていたはずです。すなわち船大工。工具ももちろんのこと。日本に帰化するためには、技術提供も条件となったと考えています。
この時代、神功皇后、というより仲哀天皇が造らせた船は48隻と言われています。造船所として和間の浜や洞海湾が伝わっています。
この洞海湾の中心が先述の熊鰐の仲宿八幡神社ですが、同じ末裔の豊山八幡神社(とよやま・下巻93)では、推古天皇の時にもこの軍団は協力した話が伝わっています。
この時代にも当然ながら帆船が造られたと思います。
ガイドブックをお持ちの方は、上記のように船シリーズでも読んでみてください。各地の神社がお互いの事を知らないのに、整合する伝承を持っているので、わくわくすると思います。もちろん、ブログのサイドバーからもどうぞ。
忌宮神社 上巻1 造船。功満王の帰化
縫殿神社 上巻5 船の帆。
仲宿八幡神社 下巻92 造船と帆柱修理
豊山八幡神社 下巻93 推古天皇の時代
以上から、仲哀天皇の龍船は帆船だったと言えるのですが、その帆柱が3本だったという驚きの話が『高良玉垂宮神秘書』に載っていたのです。しかも竜骨があったとも。
さすがに、これを見た時は思考停止して、スルーしてしまったのですが、クジラさんがそれについて指摘されたので、調べてみることにしました。(つづく)
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