ひもろぎ逍遥

lunabura.exblog.jp ブログトップ

神秘書・神功皇后の船は三本マストの竜骨船だったのか。(2)

神秘書・

神功皇后の船は
三本マストの竜骨船だったのか。(2)

前回は、弥生末期に帆柱の船を作ったという伝承が周防灘周辺各地に伝わっている話をしましたが、その船の構造について「高良玉垂宮神秘書」に書いてあるので、今回はその条を読んでみます。

(カタカナと漢字の原文を平仮名と漢字に直しています。一部の漢字には綾杉の解釈が入っています。)

213条
【訳】異国征伐の時、御船を作られたことは、神功皇后が阿弥陀如来の変化でいらっしゃるからで、六十八チウセの悲願を起こし、人倫苦界の衆生を御救いになった法蔵比丘の誓い四十八願を忘れずに四十八艘の船を作られた。

御船の長さは天神七代、地神五代合わせて十二代を表して十二丈と定められた。ともは五色で、五仏を表す。舳先(へさき)五色は五躰尊不動を表している。中の船ハリ四つは四天王、ともの船ハリは金剛界の大日、へさきの船ハリは胎蔵界の大日を表す。

以上、船ハリ六本である。三本の帆柱は過去、現在、未来を表している。船の名は竜頭鷁首と名付けた。


上記には検討すべき問題がいくつかあります。思いついた課題は次のものです。

1)船の設計理念が仏教によるものである。仏教伝来と時代が合わない。
2)船には三本の帆柱があり、竜頭鷁首であった。
3)三本マストは神功皇后の時代のものか、神秘書の成立時代のものか。

1)船の設計理念が仏教によるものである。

「神功皇后が阿弥陀如来の変化(へんげ)」と書かれています。神功皇后は香椎菩薩とも言われていますが、ここ高良山では阿弥陀如来の化身と考えられていました。

しかし、仏教の説明は時代が合いません。手掛かりが「法蔵比丘(びく)」です。

建造した船の数の「48」という聖数は「法蔵比丘(びく)の誓いの数」が起源と書かれています。「法蔵」を調べると643年生まれで 712年没。中国唐の時代における華厳宗の僧となっています。

時代が明らかに逆転しているので、213条に書かれた船の構造に仏教の思想に基づくという説明は後付けの作り話だということになります。
 


2)船には三本の帆柱があり、竜頭鷁首であった。

「竜頭鷁首」は原文は「リウトウケキシウ」となっています。
「竜頭」とは船首に竜の彫り物をしたもの、「竜頭」とは「げき」という想像の鳥の彫り物をしたもので、二艘一対の平安時代の船です。


c0222861_21114191.jpg

画像はフォト蔵より

竜頭鷁首に関しては、平安王朝文化と神功皇后を結びつけた想像の話でしょう。



3)三本マストは神功皇后の時代のものか、神秘書の成立時代のものか。

三本マストについてウィキペディアで調べると、地中海では紀元前7世紀にはマストが付けられ、三本マストの最も古い記録が紀元前240年ごろに出て来るとあります。

当時、フェニキア人が地中海から外海にでてスペインへ行った記録も書かれています。フェニキア人というと、琉球大学の木村教授が与論島沖の海底遺跡はフェニキア人のものという説を出してあります。

真鍋の家伝にもフェニキア人が日本にやって来た話が次のように書かれています。

(双子座の一対の星、カストルとポルックスは)地中海では、北極星以上にこの方が航海目標になっていた。Troyaトロヤ人Phoensiaフェニキア人は、いずれもこの星を仰ぎ見て行方をさだめていた。

そして船の檣(ほばしら)に電光なるSt.Elmoセントエルモの炎が輝く時、嵐がいかに猛り狂っても、その船だけは神に守られると信じていた。しかしその子孫がいつの頃か極東に進出した後はこの神話を語る倭人はなくなっていた。

替って風神天女が帆柱の上を舞うと嵐はやがて静まるという奇蹟にも似た伝説は仁治元(一二四一)年のころまで筑紫に語られていた。

 西海は神代のころ志那都比古命を祀り、これを日夜拝んで船の行方の平らけく安らけきを祈る信仰があった。『儺の国の星』p188
 


トロヤ人やフェニキア人は、帆柱の先端が発光すると嵐が収まることを知っていました。彼らは極東(日本)に来ていたのですが、その話がいつしか消えました。しかし、その発光現象が風神天女の舞という形に変化して伝わっていたといいます。


また、真鍋は他に、ウラルアルタイ民族の巫女の部屋に鳥の首の彫刻を飾りつける習慣があり、これが天鳥船(あめのとりふね)の守り神として、港や岬の石塔に竿につけて建てられたとも書いています。

この双子座を筑紫では聖母星と言い、「神功皇后と皇子」に見立てていました。

鳥の首、船、二つ星(双子・神功皇后母子)。

どことなく星の伝承と神功皇后の船、竜頭鷁首が重なってきます。

神秘書を書いた保房(やすふさ)は戦国末期から江戸初期を生きた人。彼の記憶には千年以上も前の皇后の面影がこのようなキーワードで残っていて、言語化するとき、一対の竜頭鷁首やマストの話となってしまったような印象を覚えます。


真鍋はフェニキア人についてさらに次のように書いています。

うみへび座のアルファド星を飛廉(ひれん)の星と言う。

フェニキア人(比鸞人・ひらん)が日本に渡航したのは、エジプトの第26王朝ネコ二世(前611~595)が、喜望峰を東に船隊を派遣した頃から始まっていた。
プトレマイオス(前304~30)の世界地図に現在とほとんど変わらぬ極東の形が描かれているのがこの背景にある。


飛廉(ひれん)とは風の神で、三韓征伐の時の倭軍の船をたすけた神です。

真鍋家ではフェニキア人が紀元前6世紀頃には日本に渡航したと伝えていたようです。


三本マストの船を持つフェニキア人が渡来していたなら、皇后の船に三本の帆柱があった可能性も充分にあります。

さて、「三本の帆柱は過去、現在、未来を表している。」と神秘書に書かれています。「過去・現在・未来」と、近代的な発想で語られている点にとても驚いたのですが、これも仏教思想の影響で、保房が考え付いたものではないかと思われます。


ところで、保房が生きていた時代、中世末期から近世初期といえば、南蛮船が渡来していたはずです。南蛮船が三本マストだとすると、保房が南蛮船から連想して書いた可能性もあると思い、画像を探してみました。

c0222861_2115263.jpg

画像出典
http://www.bungobunka.com/pro22.html


ありました!これは三本マストですね!保房が南蛮船を見たり聞いたりした可能性も出てきました。そのため、神功皇后の船も「かく在らん」と考えた可能性もあります。だからと言って、皇后の船が3本マストではない証拠とはなりません。

以上、神功皇后の船にマストがあったことは確信しますが、3本だったかどうかは、213条だけでは決定できませんでした。



次に竜骨について。

237条
【訳】大善寺の名の起こりは、高良山の寺社が始まった月に大菩薩のお言葉に「大いに善き所」とあったので、大善寺と付いた。大菩薩が高良山へ来られる前に、九月三日、大善寺に上陸され、五日間逗留され、船を検査し、カウラを捨てられたことから、御舟山という。七日の午の刻から舟を仕立てて酒見へ上陸され、波風の神(少童神)をおさめ、天の二十八宿、地の三十六、二十五余り併せて九十九尊を祀られた。のちには風浪権現として祀り、やがて九十九社とした。(略)


文中、カタカナのまま書いた「カウラ」を注では「竜骨」としています。

久留米の大善寺玉垂宮はその船が御神体とされています。船をどうやって御神体とするのかイメージが湧かなかったのですが、竜骨が御神体とすると、うなずけるものがあります。

酒見には風浪宮があり、近くに国際港だった榎津があります。そこから筑後川沿いに大善寺まで大型船が乗りつけられたんですね。

安曇族は大陸との交易を考えた時、風浪宮と大善寺玉垂宮は絶対に譲れなかったとみえます。

磯良(高良大菩薩)は乗り捨てた船を検査すると傷んでいたので、新たに小さな船を作った話が神秘書の中にも数カ所に出てきます。

ガイドブックでは風浪宮から大善寺玉垂宮へと筑後川(古有明海)を遡ったという仮説を出しています。神秘書でもそれが裏付けられました。ただし、いったん黒崎に出たと書いてある点が、ガイドブックとは違っています。

77番 風浪宮
78番 大善寺玉垂宮
合わせて読んでください。ブログの方ではまだ仮説を立てるに至っていません。

以上、神秘書の「神功皇后の船は三本マストの竜骨船だったのか。」という課題に対して、その可能性はあると考えました。




いつもポチっと応援ありがとう。
にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村
c0222861_15184581.gif


[PR]
by lunabura | 2015-08-08 21:16 | 高良大社・玉垂宮・久留米市 | Trackback | Comments(27)
トラックバックURL : https://lunabura.exblog.jp/tb/24528749
トラックバックする(会員専用) [ヘルプ]
※このブログはトラックバック承認制を適用しています。 ブログの持ち主が承認するまでトラックバックは表示されません。
Commented by こんばんわん at 2015-08-09 23:18 x
 こんばんわ(^ー^)b
 岐阜県大垣市の荒尾南遺跡(弥生時代:3世紀)の方形周溝墓の溝から、出土した広口壺に線刻されていた絵には、帆船が描かれているそうです。
http://www.gifu-kenpaku.jp/wp-content/uploads/2011/12/fda6dc5ee0a00a7004cbba271cfda260.pdf
 これから見ると、三本マストは、全て帆ではなく一部は旗であったかも知れませんね。
 神功皇后の「大帯姫」の名も、占いなど旗を多くたなびかせていたからその名が付いたという人もいるようです。
Commented by lunabura at 2015-08-10 23:36
すごい画像ですね。
まるで、エジプトの太陽の船のようです。
日本にもこれを信奉する人たちがいたということでしょうか。
岐阜県!海がないですよね。どう解釈されているんでしょうか。
興味深いです。
Commented by furutsuki at 2015-08-13 13:07 x
昨日、出雲大社に行ったのですが、古代出雲歴史博物館の特別展でたまたま琉球王国展をやっていました。そこに琉球の「進貢船」(サメのような顔が描いてある大型構造船)の絵がありました。「帆柱が三本ついているなぁ」「でも船体は琵琶湖の丸子船っぽいなぁ」「竜骨なくても帆柱三本立つんだぁ」「帆桟があるなぁ」「そういや『丸』は『和邇』だなぁ」などと思って眺めてたところです。
Commented by furutsuki at 2015-08-13 16:59 x
それと、今年、京都嵐山の三船祭を観たのですが、竜頭船と鷁首船は別の船でしたがそれぞれ双胴船でした。 そういえば、神戸海洋博物館で、丸木船から和船の成立までの展示をみたことがあるのを思い出しました。左右の舷側を船梁で支える準構造船を双胴船の発展のように説明してありました。「高良玉垂宮神秘書(213条)」からは、舟形埴輪のように舷側板の舳先が2つある船を想像しました。
Commented by lunabura at 2015-08-13 23:31
hurutsukiさん、先般は大変お世話になりました。
まだまだブログに反映できていません (^_^;)

船のお話、ありがとうございます。具体的で興味深いです。皆さんの情報網に助けられています。
古代の船は帆かけ船もあるし、そうでないものもあったのでしょうね。
海や川、湾、荷の用途でいろんな姿の船が行き交っていたのでしょう。
Commented by tatsu at 2015-08-14 19:07 x
こんばんは。古代船で昔のことを思い出しました。
15年以上も前ですが、熊本の西原村にある古代船が刻まれているという石を見に行ったことがあります。写真に撮りましたが画像では判別が困難でした。風化が進み太陽光線の微妙な当り方が影響するのだろうと思いました。その後こういった線刻紋様についての社会の関心は薄れ、それらの多くは捏造、見誤りとも言われる状況です。

しかし、一連の記事にある古代船のような、加茂の星と言われたかんむり座のような、両端が反り上がった船形をしたかすかな線を、地表に突き出た小振りの岩塊の側面に確かに見ました。かんむり座が真夜中に天頂に輝く5月頃は季節風の変わり目でもあり、そこでは渡海往来の節目の祭祀が、海から遡上して資源探査をしながら川の最上流まで辿りついた海洋民(加茂氏?)によって行われていたのではとも想像します。

あれは何だったのか、ちょっと山登りになりますが、もう一度確かめに行ってみようと思います。
Commented by lunabura at 2015-08-14 23:51
tatsuさん、こんばんは。
五月に天頂に輝くのは現在もですか?
押戸石山の王者の石(と勝手に名付けた)に座ると正面に冠のような、ネックレスのような星座を見ました。その時、王者の即位式がここであるのでは、なんぞと想像しました。王者の石はリクライニングの角度になった石です。
それは変性意識をもたらすような特別の即位式では?と妄想したものです。tatsuさんが、「節目の祭祀」と観じられたものから思い出しました。「冠座」の名前にはそんな意味が込められているのかもしれませんね。

何故か押戸石山には夜中に行ったものです(^_^;)
Commented by tatsu at 2015-08-15 09:51 x
おはようございます。
現在でも天頂から5度くらい下がったところまで昇ります。2000年前には頭の真上でしたから、まさに冠座でした。ご参考に星図をお送りしましたのでご覧ください。今は、例えば今夜の8時半頃にはほぼ真西の上空、高度60~70度くらいにかんむり座が見えます。

押戸石のその石は心当たりがあります。あのような石は他の巨石サイトでも見かけますが、石ながら意外と座り心地がよいものですね。ご覧になった星も夏場でしたらかんむり座だったのでしょう

私は押戸石へは夜明けに何度か行きました。やはりあのような場所は夜から朝、また夕から夜のような明るさが変わるとき、それも夏至や冬至のように昼夜の長さが極端に違うときがよいと思います。

今は押し付けがましい解説書付きで入場料を取るようになって、すっかり観光名所になりましたが、心ある人たちが減って精霊の密度も低下しているのではないでしょうか。
Commented by lunabura at 2015-08-15 20:49
画像をありがとうございます。
四枚目が、まさに私が見たものです。
天空の底にくっきりと存在感を示す冠座はどの時代にも格別なものだったのかもしれませんね。
「王者の石」の左隣にある同系で小ぶりの石は「王妃の石」と勝手に読んでいます。
私にはその小ぶりの方なら上手く座れました。

押戸石は天空に意識が馳せる不思議なストーンサークルです。
Commented by furutsuki at 2015-08-16 00:14 x
フェニキアの船がどんなのか気になっていたので、今し方いろいろとネットを見ていたら、フェニキアの船って船首に目玉が描いてあった
と知りました。目玉は、琉球船だけでなくベトナムの船とかにも
ありますね。
それと、鷁首船の英訳は A Boat with a Phenix Figure-Head
だそうですが、 phenix は Phoeniciax(フェニキアクス) が語源
なんですね。とても面白いと思いました。
Commented by lunabura at 2015-08-16 22:43
フェニキア船だけに絞って調べるのは面白そうですね!
「目玉」とは!
そして、フェニキアクス…変換したらフェニキア楠ってなっちゃいました ^^
船材になる楠の語源、まさかね…。(^_^;)
Commented by チェリー at 2015-08-17 00:18 x
ちょうど今日(2015-8-16)、穂高神社奥宮(長野県松本市安曇上高地)に、お参りをしてきたところでした。10月8日の奥宮例祭では、明神池に竜頭鷁首の2艘の船を浮かべて雅楽を奏でるのだそうです。「鷁」も想像の鳥だったんですね。
とりあえず、安曇族の繁栄と世界平和をお祈りしたんですが、それでよかったんでしょうか…?
Commented by lunabura at 2015-08-18 00:01
チェリーさん、こんばんは。明神池は広いんですね。よく考えると、「竜」も「鷁」も想像のものになりますね。
お祈りのこと、
私は「よいか」どうか、物を言う立場にはありませんが、ありがとうございます。
Commented by チェリー at 2015-08-19 00:09 x
lunaさんにお礼を言っていただけるなんて、恐縮です。すみません。
でも、これで疲れも癒されました!その前日に穂高神社嶺宮(みねみや)にお参りしたのです。奥穂高岳の山頂です。といっても新しく設けられたお社のようですけど。
人が一人立てるくらいのスペースしかないので、登山者が写真を撮るのに行列ができるといった有様で、他に手を合わせる人が見えなかったのが残念でした。
奥宮のある明神池の一の池は直径100m程もあるでしょうか、広くて美しい…よくぞここを見つけましたね!といった場所です。
信州安曇野…安曇族が移り住んだこの土地はこの世の桃源郷といったようです。海を追われて隠れ住んだといった印象では、全然ないですねぇ〜



Commented by lunabura at 2015-08-19 22:53
そうですか。
奥穂高岳山頂のお話が聞けるとは!
安曇族はスズ鉄を求めて安曇野に入り、土木、水利工事をしたので、志賀島に感謝されている様子でした。
トラックで志賀島の砂を取りに見えたそうです。
Commented by なな at 2016-08-27 02:13 x
横やり失礼します。。。
岐阜県、1300年前の猿投神社の地図が残っていまして、その頃は尾張一宮の真清田神社のあるあたりは島で、あとは岐阜の奥ふかくまで海でした。海から琵琶湖までいけたかどうかは地図が切れていてわかりませんが。http://saraswati.biz/owarifusoukoku.html
穂高、やはり船を引っ張り上げるのですね
見てみたいです
住吉さまは速狭騰尊で高天原に船で遡るようです・・・
Commented by lunabura at 2016-08-27 23:26
平安時代に奥深く海が入っていたとは、興味深いですね。

>住吉さまは速狭騰尊で<
にびっくり。「速狭騰」って、仲哀天皇の死に関連する言葉でしたよね…
Commented by チェリー at 2016-08-28 23:58 x
ななさん、はじめまして。
穂高神社奥宮が鎮座する明神池は、本当に美しいところです。池の周辺を歩くことができるのですが、身も心も洗われるようで…
安曇野市穂高にある本宮には、冬に行きました。境内の御船会館の展示がとても興味深かったです。その時は、ちょうど全国の安曇関係の展示もされていました。以前に全国安曇族サミットがあったようですね。
本宮のある穂高という場所は、北アルプス南部の川が全部集まるという地形のようで、水が豊かなところです。
海の民にはふさわしいと思いました。

lunaさんへ、ひめこそ関連地図が遅れています。申し訳ありません。
各ポイントそれぞれにラインを設定できるのですが、統一性がなくて、バラバラのままお見せすることになりそうです。
現在「海の参道」というシリーズを書いているのですが、すぐ終わりますので、その次に始める予定です!
Commented by lunabura at 2016-08-30 00:02
チェリーさん、こんばんは。
面白いラインを見つけたので、調査をお願いしたいと思っているのですが、当方も間に合わずにいます。
それと、太神宮(みやま市)は天智が祈ったのが東の方だそうです。八女の山々が見えています。
Commented by チェリー at 2016-08-30 01:21 x
太神宮から東の方に松尾弁財天がありますが、東西関係というにはズレが大きいと思います。太神宮は矢部村の「星原山」という山から真西 270.00°になるのですが、残念ながら伝承等は見つけていません。
ただ、気になることがあって、星原山から真北 0.04°に、マテラ山麓の「普門密院」というお寺があって、その普門密院から南西 225.05°のところに太神宮が位置します。
つまり、底角45°の二等辺三角形ができるわけですが…どうかなぁ~まあ、保留としておきましょう。
Commented by lunabura at 2016-08-30 22:40
チェリーさん、早速ありがとうございます。
その松尾弁財天ですが、そこから二上山が見えるのです。
どうやら英彦山っぽい姿です。
記事にする予定ですが、まだ時間が取れません。
その山が英彦山だとすると、松尾弁財天に大国主が祀られる理由が見えてきそうなのですが。
Commented by チェリー at 2016-08-31 00:32 x
lunaさん、こんばんは。
カシバード(カシミール3Dの三次元画像)で、ざっと見ましたが、英彦山は苦しいです。
登ってみえた谷の方向が開けてますので、そちら方向の景色かと思いますが、英彦山だと左側の尾根に隠れてしまいます。
右側の尾根の上の方に、二上山らしき山が見えますが、それかなぁ…
もしもその山でしたら、日向神ダムの北にある「石割岳(標高941.5m)」と「平野岳」になります。
飛形山あたりからでしたら、英彦山がよく見えるのですが…
Commented by lunabura at 2016-09-01 21:48
チェリーさん、早速ありがとうございます。
画像無しで当たりですね!
名前が分かるとうれしいです。
Commented by tukifune83 at 2016-09-02 02:09
チェリーさん、るなさん こんばんわ!
銀です!
上広川、水田村、福島、長峰。
どれも旧地名ですが、七社 大神宮もしくは太神宮 があります。
際神は 天照大御神、天照皇太神、オオヒルメノムチ、一番不思議なのは少彦名命 が祀られている事です。
全て旧無格社です(^_^;)
Commented by lunabura at 2016-09-03 23:41
ついにオオヒルメノムチが!
何処に祀られているのかなあ、と考えていたばかりでした。
岩戸山古墳に食い込んでいるのも、大神宮でしたっけ。
これも面白そうですね。
Commented by チェリー at 2016-09-04 02:08 x
銀千代さん、こんばんは。情報をありがとうございます。
八女はすごいところですね…今まで調べた中で印象深いのが室山熊野神社とカラ迫岳です。
カラ迫岳では金の採掘がされていたようですね…

鞍手と何とかラインがつながらないかと思っているのですが、まだまだです。
日向神社は馬見山の真南でしたけど…
Commented by tukifune83 at 2016-09-04 02:23
チェリーさんこんばんは(^o^)
そう!!!カラ迫岳です!
金山ですね。その後色々な争いの場にもなってるみたいですしね!
line

綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25


by lunabura
line
クリエイティビティを刺激するポータル homepage.excite
カレンダー