2015年 08月 19日
賀茂神社(3)足一騰宮2・賀茂氏と安曇族と水沼族と中臣氏の大連合
賀茂神社(3)
足一騰宮2
賀茂氏と安曇族と水沼族と中臣氏の大連合

「足一騰宮」(あしひとつあがりのみや)という不思議な言葉も、「足が一つ騰がっている姿」即ち、「片膝立てた姿」と考えれば、それが何を象徴しているのか見えてきます。
「片膝立て」とは冶金の民が炎の色を見る時に取る楽な姿勢のこと。言い換えれば、ここには冶金の民がいたということになります。
ここで神武天皇を迎えた宇佐都比古、宇佐都比売は兄妹で三女神の神裔だといいます。(三女神社縁起)。水沼族は三女神を祀る氏族ですが、ここ安心院でも祀っていたことが分かりました。
神武天皇以前に水沼族は安心院(あじむ)に入植していたことになります。三女神社(二女神社)は水沼の聖地だったのです。川沿いにあったので、船着き場を掌握したのでしょう。
一方、神武天皇は磐座のある共鑰山(ともがきやま)に母・玉依姫を祀りました。そして、侍臣の天之種子命(あめのたねこのみこと)と宇佐都比売を結婚させました。それからこの地を「妻垣」(ともがき)と呼ぶようになったといいます。
天之種子命は天皇からここを守るように命ぜられ、その子孫・矢候(やこう・矢野)氏が代々社家を勤めていました。天之種子命については、当宮縁起にも『日本書紀』にも、中臣氏の遠祖と書いてあります。
こうして神武天皇は母の玉依姫を祀るための仕組みを作りました。それは安心院が安曇族の統治する地だという宣言でもあります。
「安心院」(あじむ)という地名は、玉依姫が霊界で「安楽の御心」になったことから「安心」院となったと当宮縁起には書かれています。少し無理があります。
「安楽」は大宰府の「安楽寺」という安曇関係の寺の名であり、「安心」(あんじん)には「安曇」(あんどん)の音韻変化がみられます。あるいは「阿知女」(あちめ)「アジメ」「アジム」と変化したのかも知れません。いずれにしろ「安曇」の発音の変化の一つでしょう。
神武天皇が宇佐に来た時は安曇族の海船に乗り、駅館川(やっかんがわ)を遡るのは水沼族の川船だったと思われます。
その目的は何か。
それはこの盆地がかつては葦の生える沼地だったことがヒントになります。
葦から採れる鉄はスズ鉄(リモナイト)です。
鉄を作るのは賀茂の民。
「足一騰」に象徴されていたのは賀茂の民です
水沼族の本貫地である久留米の赤司八幡神社から大善寺玉垂宮にかけての筑後川には、今なお葦が茂っています。その上流域にうきは市の賀茂神社があるのです。
「足一騰」は星にもその名が付いていました。
「足一騰星」と呼ばれたのは北斗七星です。

北斗七星が横になった時の形を「一」と「目」即ち「片目」に見立て「一目星」(はなみのほし)とも呼びました。これは炎の輝きから視力を守るために、あるいは集中するために片目を閉じる「一目」(ひとつまなこ)のことです。
賀茂(かも)の語源は燕語の「一目」即ち「かなむり」の倭約で、「かなむり→かも」と変化したものだろうと真鍋は推測しています。その風貌は緑眼鼻高とも言っています。
「足一騰宮」とは賀茂氏の宮だたのでしょう。ここで鉄を生産し、武器を作っていたのです。その現場は隣の佐田神社の方です。
宇佐都比古と宇佐都比売は「三女神の神裔」だということですが、思えば、三女神のうち、二女神がオオナムチと結婚しています。それぞれに二人の子が生まれ、タキリ姫の方にはアジスキタカヒコネが生まれています。このアジスキタカヒコネこそ、「賀茂大神」と言われています。
思いがけず、系図からも賀茂氏の名が出てきました。
そして、中臣氏がここに結婚という形で残りました。中臣氏は祈りを司ります。水沼もまた神と人の仲立ちをする巫女の家系です。玉依姫を祀るための盤石の体制が整いました。
さて、この宮にはもう一つ、重要なものがあります。
馬蹄石の磐座です。
「龍の駒のヒズメの跡」(馬蹄石)といいます。「龍」とは明らかに海神のことで、神霊となった玉依姫がつけた趾とも言われています。
この「馬蹄石」が、久留米の高良山の磐座、神籠石にも残されています。
高良山に残る馬蹄石に関しては神秘書にこう書かれています。
高良大菩薩(この時は安曇磯良)がやって来たとき、山を支配していた高木の神が下って来た。高良大菩薩が証拠として神籠石に付けられた「馬のヒズメの跡の穴」を見せると、高木の神が納得して山を下ったとい内容です。
何故、高木の神が「穴」を見て納得したのか、理由が書かれていないので、当時の常識で、伝わっていない事情があるのだろうと思っていたのですが、どうやら「足一つ」という賀茂氏、あるいは安曇族を象徴するものの可能性が出てきました。
他に馬蹄石の伝承が見つかれば何らかの答えが出そうです。
安心院で見られた賀茂氏と安曇族と水沼族と中臣氏。
この連合が、うきは市の賀茂神社でも、高良山の麓でも見られます。
複雑ではありますが、婚姻を重ねることで、筑紫君が形成され、勢力を拡大していったと読み取る事もできますね。
※ガイドブックをお持ちの方。
「水沼が神と人を仲立ちする巫女を生みだす家系」については「下巻78大善寺玉垂宮」に。
タキリ姫とオオナムチの結婚については「下巻70楯崎神社」に書いています。
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