2015年 08月 20日
賀茂神社(4)鉱物資源を求めた渡来人たち
賀茂神社(4)
鉱物資源を求めた渡来人たち
ふたたび、うきは市の賀茂神社に戻ってきました。

同じような朱色です。
ウィキペディアに書かれている当社縁起は
当社の行直大宮司が慶安4年(1651年)に誌した旧記には、「賀茂大神は最初にこの地に天降り鎮座され、神武天皇が日向から大和へ御東遷のみぎり、宇佐から山北へ来られ賀茂大神は八咫烏(やたがらす)となって御東幸を助け奉られたので、今も神武天皇と賀茂大神を奉祀する」と述べている。(略)
となっています。
御祭神
神日本磐余尊(神武天皇)
賀茂別雷尊
賀茂建角身尊
玉依姫尊
はっきりと、「賀茂別雷尊、賀茂建角身尊」と、賀茂の神が祀られています。安心院の足一騰宮のケースから考えると、玉依姫はやはり、神武天皇が母を祀らせたのかもしれませんね。
神武天皇の移動ルートは安心院から浮羽へと縁起は伝えています。その様子を推理しました。
浮羽の賀茂氏は神武天皇がやってくる以前から、筑紫を貫流する「ありなれ川」が流れていた頃に、船で筑後川の上流に辿りついて産鉄に取り掛かり、地元の水沼族や北部の安曇族と連携を結んで交易を行い、安心院にもその勢力を延ばしていた。
一方、山幸彦の一派が安曇族に通婚し、玉依姫にイハレビコ(神武天皇)が生まれた。イハレビコは成人すると、安心院や浮羽(うきは)を回って武器生産のようすを視察した。
この時代は船にミサキカラス(八咫烏・カチガラス)を載せて干潟や湖沼のようすを調べさていていた。賀茂氏は「先導するもの」として、八咫烏というトーテムで呼ばれた。
そんな流れでしょうか。
賀茂氏の製鉄技術と、安曇族や水沼族の運搬力が早くからシステム化されて、日本の各地を開発していた姿が見えてきました。
その代表例が長野の安曇野です。
また、阿蘇の盆地でも、湖沼の水を抜いて葦原にして、鉄を産し、のちには水田化させています。阿蘇は神武天皇の次男、三男が開発に関わったので、「鉄を統べる者は倭国を統べる」ような状態だったのでしょう。(統(す)べる)
スズ鉄の生産は葦を燃やせばいいので、環境をそれほど破壊しなかったのですが、砂鉄による製鉄は山の木を切り倒して燃やすために、伐採された山はがけ崩れが起こり、水田は土砂で埋もれ、自然災害を伴うような産鉄でした。良質の砂鉄が採れる糸島や熊本の海岸部ではその方法で鉄器を作っていました。
渡来人たちが倭国を目指して来た目的に、鉄や金や銀、水銀があったのがくっきりと見えてきました。それほど、鉱物には魅力があるのでしょうか。
現代人は月や宇宙にロケットを飛ばしていますが、その目的の一つに「資源の開発」があることを考えると、人類って何千年も変わらない性(さが)を持っているようです。
そろそろ転換期に来ていると思うんですがね。

境内の狛犬。

境内裏の小塩川。
地図 うきは市(赤) 安心院(青)
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