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ひもろぎ逍遥

賀茂神社(5)三毛入野命の末裔の宮


賀茂神社(5)

三毛入野命の末裔の宮


町誌を見ていると「三毛入野(みけいりの)命の裔」という文字がさりげなく二か所に出てきています。
???
どこかで聞いた名前だな。

そう思って調べると、神武天皇の兄でした。
『日本書紀』によると、
三毛入野命はイワレビコ(神武天皇)たちと共に東征する途中、海難に遭い、常世の国に行ってしまいます。

その時の恨みの言葉が「私の母や叔母は海神(わたつみ)なのに、どうして波を立てて溺れさせるのだ」です。

この時、もう一人の兄、稲飯(いなひの)命も「我が祖は天神、母は海神。どうして陸に海にと、翻弄するのだ」と嘆いて剣を抜いて入水します。

海神とは即ち、安曇族。
二人の母と叔母とは即ち、玉依姫と豊玉姫のことです。

これを踏まえて町誌を読んでみましょう。

由緒
当社については、迦毛大御神御神跡で賀茂社の総本社に座すという伝など諸伝があるが、藩内通俗諸書の述べるところでは、後村上天皇の御代正平元年(1346)に西征将軍懐良親王が領主三毛入野命の裔山北四郎永高に命じて、九州鎮護のために、山城国愛宕郡賀茂下上大神宮を勧請されたのが創始である。(略)時の大宮司は熊懐平馬太輔行景であった。(略)

「領主・三毛入野命の裔」と出てきました。時代は1346年。懐良親王が来た時の話です。

迎えた領主・山北四郎永高は三毛入野命の末裔だったのです。町誌では、この時、京都の賀茂神社を勧請したのが創始であると書き、古伝はバッサリと切り捨てて、内容が一行も書かれていません。

 しかし、ウィキペディアに誰かが書いて置いてくれたお蔭で、私たちは縁起を知る事が出来ました。その出所は当社の古文書です。

 で、今回のテーマは「三毛入野命の末裔が当地の領主だった」ということです。

これを推理すると、神武天皇が安心院から浮羽にやって来た時、実は兄も一緒だったのではないでしょうか。

賀茂氏が姫を三毛入野命に娶(めあわ)せたとすると、その子供が代々、当地を治めたということになり、辻褄が合います。

イワレビコは安心院では侍臣の天之種子を水沼の姫と結婚させていました。こうして、各地で姻戚関係を結ばせることによって、着々と支配体制を固めていきました。

その後、軍備が整うと、三毛入野命とイワレビコ命は共に安曇族の船に乗って、東征したのでしょう。

浮羽では、賀茂氏と天孫族は協力関係の絆を太くしました。


さて、町誌によると、境内には箱式古墳や有紋土器が散在していたとあるので、確認してきました。

境内は整地されていて、その様子は分からなかったのですが、気になる丘の方に行ってみると、おびただしい古墳があったのです。


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三王神社とあります。




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石碑を撮って一歩下がった時、穴に足を踏み入れそうになりました。
見ると、石棺の蓋がずれています。向こうにはマウンドが並んでいます。
ここは古墳群だったのです。


ここは賀茂氏の領土なので、聖地のそばにある古墳群は代々の賀茂氏の長のものかもしれません。

それは、賀茂氏でも、三毛入野命という神武天皇の兄の系譜となります。もちろん、安曇の系譜でもあります。

当社の4月11日の例祭には京都の葵祭の規式によって神幸が行われているそうです。

12月11日の氏子祭には、往時は生葉、竹野、筑前上座、下座、夜須の社家が集まって奉仕したそうです。上座、下座(朝倉)夜須までもが当社の氏子だとすると、かなりの広範囲です。

そして、その範囲こそ、神功皇后が羽白熊鷲討伐で通った古代路と重なるのです。

夜須では大本営、松峡(まつお)八幡宮を設営しています。いったい、どんな豪族が協力したのだろうかと、考えていました。

賀茂神社の縁起から、三毛入野命の末裔と協力関係があった豪族だったのが分かりました。




「神功皇后伝承を歩く」をお持ちの方
「羽白熊鷲のとの戦い」
40番砥上神社から、51番美奈宜神社まで、通してお読みください。
松峡宮(大本営趾)から秋月野鳥(のとり)の熊鷲を攻撃、滅ぼして朝倉へ降りて来る道筋を描いています。







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Commented by 筑後国造 at 2015-08-25 05:00 x
宮前古墳群ですね。石棺蓋がそばにあったことには気づきませんでした。
ところで、賀茂神社の宮司は、高校の時の担任の先生でした。
英語、仏語の堪能な先生でしたが、退職後、賀茂神社の宮司をされていました。
賀茂神社を参拝したのは、亡くなった後だったのが残念です。
生前でしたら、賀茂神社や、浮羽の歴史を熱く語られたでしょう。
Commented by lunabura at 2015-08-25 21:18
筑後国造さん、こんばんは。
宮司さんが先生だったとは!
浮羽の歴史の語り部だったことでしょうね。

ところで、生葉の交差点が意外に遠くて、浮羽という地域をどう捉えていいのか、未だ分かりません。

また、宮前古墳群にあったおびたたしい数の人頭サイズの石(川石でなく、割り石)を見て、石棺を構成する石でもなく、いったい何だったのだろうと考えていました。
投稿している石段のカーブや、入り口の変則的な曲がり方を思うと、前方後円墳ではないかと気になっています。墳丘をフラットに削って三王宮を建立したり、小円墳を作ったりしたのではないか。あの人頭サイズの石は葺き石だったのではないか、なんて、考えていました。
何かヒントがあったら教えてください。
by lunabura | 2015-08-23 16:41 | (カ行)神社 | Comments(2)

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