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ひもろぎ逍遥

賀茂神社(6)賀茂大神は古出雲と水沼のハイブリットか


賀茂神社(6)

賀茂大神=賀茂建角身=八咫烏=阿遅鉏高日子根

古出雲と水沼のハイブリットか



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当社社伝に書かれていた宇佐(安心院)と浮羽を行ったり来たりしています。
浮羽の縁起に符合する歴史が安心院にあって、伝承の確かさに今更ながら感じ入っています。

さて、当社の四祭神のうち、神武天皇のことが確認できましたが、今日は残りの三祭神について考えて見ようと思います。特に、「玉依姫」は神武天皇の母と、賀茂別雷尊の妻・玉依比売という同名別神がいるので、それも頭に入れながら見ていきます。

ウィキペディアに書かれている当社縁起は
当社の行直大宮司が慶安4年(1651年)に誌した旧記には、「賀茂大神は最初にこの地に天降り鎮座され、
神武天皇が日向から大和へ御東遷のみぎり、宇佐から山北へ来られ賀茂大神は八咫烏(やたがらす)となって御東幸を助け奉られたので、今も神武天皇と賀茂大神を奉祀する」と述べている。(略)

でした。
御祭神は
神日本磐余尊(神武天皇)
賀茂別雷尊
賀茂建角身尊
玉依姫尊


「賀茂別雷尊、賀茂建角身尊」という賀茂の神は初めての神々なので、調べてみると、「山城国風土記逸文」からの引用文が基礎資料となっているので、それを書き写して見ることにしました。

文中に出て来る「加茂の社」とは京都の下鴨神社のことです。

山城の国の風土記にいう、―――加茂の社。加茂と称するわけは、日向の曾の峰に天降りなさった神賀茂建角身命(かもたけつのみのみこと)は、神倭石余日古(かむやまといわれひこ・神武天皇)の先導として御前にお立ちになって、大倭の葛木山の峰に宿っておいでになり、そこからしだいに移動し、(略)

賀茂の建角身命は、丹波の国の神野(かみの)の神伊可古夜(いかこや)日女(ひめ)を娶ってお生みになった子を、玉依日子と名づけ、次を玉依日売といった。玉依比売が石川の瀬見の小川で川遊びをしていた時、丹塗り矢が川上から流れ下ってきた。そこでそれを持ちかえって家の寝床の近くに挿して置くと、とうとうみごもって男の子を生んだ。

(その子が)成人式の時になると、外祖父建角身命は、八尋の家を造り、八戸を堅く固めて、八腹(やはら・沢山の酒甕)に酒を醸造して、神をつどい集めて、七日七夜宴遊なさって、そうしてその子と語らっていうには「お前の父と思われる人にこの酒を飲ませなさい」と。

するとただちに酒杯をささげて天に向かって礼拝し、屋根の瓦を突き破って天に昇ってしまった。そこで外祖父の名によって加茂の別雷命と名づけた。

いわゆる丹塗り矢は乙訓(おとくに)の郡の社におでになる火雷命(ほのいかづちのみこと)である。(略) 『釈日本紀』

吉野弘訳より

神賀茂建角身命の娘の玉依比売が丹塗り矢を持ち帰ると妊娠して子が生まれたが、父が分からず、神々を集めて子供に「父に杯を」と命じたら、天を指し示したという話です。これで父が雷神・火雷命だったを分かり、子供の名前は賀茂別雷命となったということです。

そうすると、登場した「父と娘とその子」の家族が当社に祀られていると考えてよさそうです。玉依姫とは風土記の玉依比売のことでしょう。書き分けのため、神武天皇の母を玉依姫、賀茂建角身命の子供を玉依比売とします。

社伝では「神賀茂建角身命は、神倭石余日古(神武天皇)の先導として御前にお立ちになって」とあるので、「父の賀茂角身命が八咫烏」ということになります。

ところで、その降臨の地、日向の「曾」とか、大倭の「葛木山」とか、見ていると、「ソ」=脊振山に天降りして、犬鳴山系の葛城に移動したと読めて仕方がありません。

脊振山こそ賀茂神社の発祥の地((儺の国の星p68)と真鍋も伝えているし、葛城山系と言った犬鳴山系には蹈鞴の歴史があるし。

ここ、浮羽を押さえると、平群(脊振山系)、葛城(犬鳴山系)、巨勢(耳納山系)と、重要な三山が掌握できるんですね。これらの地名が神武東征と共に、関西に移動したと考えるのが自然でしょう。

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賀茂氏には東征に付いて行った一派と、浮羽に留まった一派がある、と捉えるのがよさそうです。

以上から賀茂大神とは賀茂建角身のことで八咫烏だという結論になります。

一方、今日、たまたま『古事記』を読んでいたら、大国主の子供にも「迦毛大御神」が出て来たんです。

大国主の神は胸形の奥津宮にいらっしゃる多紀理毘売を娶って生まれた子は阿遅鉏高日子根神。(あぢすきたかひこね)次に妹高比売の命。別名、下光比売命。(したてるひめ)

この阿遅鉏高日子根神は今、迦毛大御神(かものおおみかみ)と言うぞ。

風土記と『古事記』を合体すると、
賀茂大神=賀茂建角身=阿遅鉏高日子根となり、両親は「大国主と多紀理比売」となります。

もちろん、多紀理比売は三女神の一人ですが、筑紫の平群・葛城・巨勢に囲まれたエリアには水沼族がいます。その降臨地は赤司八幡神社で、三女神の中でも田心姫(たごり)を中心として祀っています。

拝火教であるゾロアスター教について、
本朝では穴遅(あなむち)として神代に現れ、天平の頃は穴師(あなし)あるいは賀名生(あのう)と呼ばれ、溶鉄錬金の橐師(たくし)工人の氏族の別名となった。)『儺の国の星』143

と真鍋は書いています。大国主=大己貴なので、賀茂大神は古出雲と水沼族のハイブリットだったという結論になってしまいました。

でも、これって、古代の筑紫をよく説明しているような感じがします。
遠賀川~玄界灘の古出雲と古有明海の水沼。筑紫の君を輩出する家系。

この古出雲―水沼の連合国が別の冶金集団の高木一族と対立していたのではないかなあ。

神功皇后の夫仲哀天皇の死後、皇后は羽白熊鷲率いる冶金集団を滅ぼしまたが、残る敵である熊襲に対しては吉備臣の祖・鴨別(かのもわけ)を遣わして攻撃させています。熊襲は簡単に降伏しました。

神武の東征ルートを考えると、吉備にも繋がってきて、吉備があれほど栄えたのも、また、同じような装飾文様があるのも、賀茂氏をキーワードとして見ると、見えてきそうな予感です。

当社の祭礼に広範囲の氏子衆が参拝するのも、中央の水沼族を考慮すると理解できました。

『神功皇后伝承を歩く』をお持ちの方は、
下巻56 赤司八幡神社
下巻78 大善寺玉垂宮
上巻33 御勢大霊石神社
を御覧ください。






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Commented at 2016-07-27 21:38
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by lunabura at 2016-07-27 23:12
アジスキタカヒコネは時間の都合で今回は除外しました。
やっぱり重要だなあ。
古典史料は住所が現代と違うので突き合わせが大変ですよね。
私もガイドブック作成の時、苦労したのを思い出しました。
そこを突き進むとタイオイ金山に至るのかな。
by lunabura | 2015-09-04 21:14 | (カ行)神社 | Comments(2)

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