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高御魂神社・ 的物部の宮という


高御魂神社
たかみたまじんじゃ
 的(いくは)物部の宮という
旧浮羽町新川春園


前回までの賀茂神社のそば、西を流れる新川水系を遡りました。
浮羽大橋を通り、合所ダムの東の山間部を走ると、新川駐在所の前に
心魅かれる古社の鳥居が見えます。
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急な石段の上に高御魂神社は鎮座していました。


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祭神 高皇産霊神 たかみむすびのかみ
   天御中主神 あめのみなかぬしのかみ
   神皇産霊神 かんみむすびのかみ

この三柱は『古事記』でも初源に出て来る神々です。
町誌を見ると八代から勧請された宮だと書いてあります。

由緒
宇多天皇寛平7年(895)、肥後国八代郡大田郷の妙見宮を、熊抱平馬太夫行定が御伴してこの地に勧請した。

895年とは、当ブログにおいては比較的新しい宮です。
熊抱という姓は賀茂神社の大宮司としても出て来ることから、
当地全体の統治に関わっていたと思われますし、
高御魂神社と賀茂神社が深い関わりだということも分かります。

この高御魂神社はもともと妙見宮と称していたのが、
明治6年(1873)に」高御魂神社と改称しました。

これ以上のことが分からないので、はたして八代に妙見宮が存在するのだろうか
とネットで検索すると容易に出て来ました。

八代市妙見町405に鎮座しています。

祭神は天之御中主神、国常立尊、また、北斗七星です。
両宮を比較すると「天御中主神」が共通しています。

面白いことに、八代の方は795年に創祀されていました。
浮羽は895年。ちょうど百年を節目として勧請していることが分かります。

八代の方では次のような縁起を伝えていました。
妙見神の来朝
天武天皇、白鳳九年(六八〇)、妙見神は、神変をもって、目深・手長・足早の三神に変し、遣唐使の寄港地、明州(寧波)の津より「亀蛇」(玄武)に駕して、当国八代郷八千把村竹原の津に来朝せり。

妙見神は寧波(ニンポー)からの渡来神でした。
白鳳九年(680)と明記しているので、渡来人が亡命して来た可能性があります。
その渡来人の風貌が三神「目深、手長、足早」で表現されているのでしょう。

680年に渡来して、795年に上宮で祭祀されるようになり、
さらにその百年後に浮羽に勧請されたことになります。

895年以前に寧波からの渡来人の一部が浮羽の山奥に入植していて、
改めてその信仰神を勧請したと考えることが出来ます。

さらに八代の方をウィキペディアで調べていると、
次のような境外末社が出て来ました。
霊符神社
祭神 - 北辰星・霊符尊星
由緒 - 霊符神社(れいふじんじゃ)は八代神社の末社、鎮宅霊符神の総本社。

推古天皇のころ、百済国聖明王の第3王子琳聖太子が八代に日本最初の霊符神を伝え、白木山神宮寺(妙見宮の神宮寺)に鎮座した。

信仰すれば、除災興栄、富貴反映を得るという。明治維新後廃仏毀釈で荒廃したが、大正年代に再興。
所在地 - 八代神社東方約200メートル

百済・聖明王の第三王子、琳聖太子が八代に来ています。

聖明王の長子が余昌(威徳王)で、鞍手の鞍橋君の率いる軍がこの余昌軍と共に新羅に侵入して、一緒に籠城しています。鞍橋君は葛子の子です。

ウィキペディアの聖明王の系図では二人の王子の名前しか書かれておらず、この第3王子の名はありません。八代にのみ残されているのかもしれません。

余昌は526年生まれなので、第3王子はその数年後の生まれです。

527年が磐井の乱です。
乱後は葛子が筑紫君になっているので、百済の第3王子は筑紫君葛子の質として来日したのかもしれません。

三韓がそれぞれ王子を質として差し出すのは、神功皇后の戦勝以来の話にみられ、高良山の方でも、三韓の三人の王子のうち、百済王子のみが生きて上陸し、他は船の中で死んだと伝えています。

話を八代に戻しますが、第3王子の琳聖太子は「霊符神を伝え、白木山神宮寺(妙見宮の神宮寺)に鎮座した」とあります。

蛇足ですが、百済王子関連でありながら白木山となっているということは、他の白木も総てを新羅とする考えは見直さなくてはならないようですね。


以上から分かる事は、
八代には磐井の時代から百済王子を受け入れる政治的な組織があり、天武天皇の時代に中国からの渡来人を受け入れたということです。その風貌から中東の辺りの人かもしれません。それから百年後、浮羽にその神を勧請しました。

八代から浮羽へ。
何があったのか。
手元の資料からはこれ以上は分からなかったのですが、くじらさんから、次のようなコメントをいただきました。

藤波ダム下流の公園の隅に「物部本家ここにあり」という意味の石碑がポツンと立っています。

明治までは浮羽から星野にかけての山岳地帯を姫治といい、鉱物資源独占の為か、外部の人間は決して入れなかったと聞いています。

この広いエリアの物部郷はある意味、隠れ里として人の眼に触れる事無く、存続してきたのでしょう。物部の一党が代々守ってきた高御魂神社は八代 妙見宮から勧請されたと言われています。

星野で思い出すのは金山があった話です。金に限らずこの山塊には鉱物資源があって、物部氏がひそかに掌握していたことになります。

これらから総合すると、八代において妙見神が「白鳳九年(六八〇)」に渡来したという年がキーポイントになります。

これは白村江の戦い663年のすぐ後なんですね。
倭国と日本国の連合軍は唐と新羅の連合軍に負けています。

考えられるのは軍備の差。
八代にいた支配層は、唐軍の軍備との大きな開きを痛感して、寧波から武器製作集団を招いたのではないでしょうか。


倭王朝が滅び、日本国が台頭して、律令制度の支配下になることを嫌い、鉱物資源があった姫治を絶対的に隠したかった。そして、倭王朝の再興を期して力を貯えようとした。それが的物部氏がこの山岳を隠した理由ではないでしょうか。


麓には天満宮がかなりの数、点在しています。また装飾古墳群がずらりと並んでいます。ここは的物部の巨大な軍事産業基地だったと想定できます。


麓の三次神社や賀茂神社が大友宗麟の崇敬を受けたり、逆に焼き打ちに遭ったことを考えると、この浮羽は中世まで、各大名が喉から手が出るほど欲しかった武器供給地だったのでしょう。

しかし姫治は徹底的に隠されて、大友宗麟の手は及ばなかった。
そんな想像をしました。


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高御魂神社






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by lunabura | 2015-09-15 20:42 | (タ行)神社 | Trackback | Comments(11)
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Commented at 2015-09-15 22:16
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by lunabura at 2015-09-15 22:41
はじめまして。
地図で調べて見ると、大友氏の存在、一言では片付けられないようですね。
詳しい話をありがとうございます。
Commented by のら at 2015-09-15 23:29 x
るなさん、こんばんは。
おおー、琳聖太子の名前がある~(^o^)
八代…。八代って何処でしたっけ(爆)
山口の大名大内氏のご先祖ですね♪
うちの多々良浜に辿り着いて多々良姓を授けられその後、大内氏に名前が変わったという。実在が怪しい人ですね!!
大内氏の始祖なので、山口県内では割りと有名かと。
防府の大日古墳もこの人のお墓の説もありますし、下松市の由来もこの人が関係してたりします。妙見宮の北辰信仰も百済から持ち込んだとかどうとか(笑)
実在が怪しい云々は分かりませんが、祖先が百済人なんだ~♪な大内氏は朝鮮との貿易が有利だったらしいです。

そんな琳聖太子の名前が遠く八代にまであるとは!!
凄いなあ♪と感動したのでコメント書きました。

Commented by ゆき at 2015-09-16 12:29 x
こんにちは。
高御魂神社から山手へずっと登ると棚田の広がる素晴らしい風景が広がっています。
どれ程の民が暮らし、栄えていたのか・・・
悠久の時に思いをはせる場所です。
Commented at 2015-09-16 17:29 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by lunabura at 2015-09-16 22:51
のらさん、凄い話ですね。
ミッシングリングが繋がった。
八代(やつしろ)は熊本です。八代亜紀で有名な♪
もう一人、阿佐太子が佐賀に。
百済王が死んだあと、王家は倭国に逃げてしまったのかな。
山口に地所を貰って、帰国のチャンスを狙ったのかもしれませんね。
Commented by lunabura at 2015-09-16 22:53
ゆきさん、非公開さん、あの山奥深い所に人々の営みがあるのは不思議ですが、
鉱山があったとしたら、納得ですね。
確か、星野は、高木神社が分布していたから、彼らがもっと早く入植していたのかもしれません。
Commented by くじら at 2015-09-17 11:31 x
浮羽や星野で観られる日本の原風景棚田は、もともとは、精錬施設や労働者の住居跡など、鉱山開発の痕跡だったのかもしれませんね。鉱脈にそって移動する過程で、食料生産の為の棚田に変わったようにも思えます。
Commented by lunabura at 2015-09-17 23:19
「うきは市の文化財」によると、新川田篭地区の建造物や棚田は国の重要文化財に指定されているんですね。
井手と呼ばれる灌漑システムが見事で、かつての鉱山関係者の技術が活かされているような印象を受けました。
ここは行ってみたい所です^^
Commented by 侑子 at 2015-09-20 16:32 x
改めまして、ご挨拶申し上げます。
非公開コメントで問註所氏の事を書いた者です。

宗麟がこの土地をどう思っていたかはわかりませんが、問註所鑑豊は戸次鑑連(道雪)の岳父であり立花誾千代の外祖父ですので、姫治が大友に隠されたということはなかっただろうと思い、つい口を挟んでしまいました。失礼いたしました。

当時は古処山に秋月氏がいて筑後川の右岸を押さえていたことと、夜明付近の左岸は難所であったことから、ルートのことを申し上げた次第です。古処山に反対勢力がいるということのヒントにもなるかと思いまして。

井手は見ていただきたいもののひとつでした。葛籠棚田地区へは途中の道筋も含めて石積みが見事で、初めて見たときは石工の穴太衆がここにも居たのかと思ったほどです。(歴史に残らなかっただけで居たかも知れませんね。)
ちょっと離れていますが、江戸時代の袋野隧道も見事です。こちらは山陰の鉱山から来た人たちが掘ったとか。キーワードはここでも鉱山。

ご紹介した筑後長岩城も、中世山城と言うには不思議なところで、巨岩信仰があってもおかしくないような見事な岩があちらこちらに露出しています。元々はそういう場所だったのかもしれない、とさえ思えるほどです。

たくさんの要素がちりばめられた土地なのだと再認識させていただきました。ありがとうございます。
Commented by lunabura at 2015-09-20 21:04
前回のコメントから、長岩城の場所を確認したのですが、姫治が挟み撃ちになっている印象を受け、また、姫治小の校歌に歌われたとしたら、その支配下になったのではないかと考えました。
平安から江戸までを網羅することは知識がなくて不可能ですが、
浮羽はアメリカの空爆に遭っていないので、古いものが豊かに残っている、貴重な地域なのですね。
認識を新たにしました^^

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