2015年 09月 21日
風浪宮参拝
風浪宮参拝
(磯良丸神社)
今日は風浪宮に参拝して阿曇宮司にお話を伺ってきました。
先日の河村哲夫氏出版記念のシンポジウムにも、九大のフォーラムにも足を運んでいただき、お招きを受けてのことでした。
今、安曇磯良の本を書いていて、ちょうど風浪宮の所で筆が止まってしまっていました。文体を変えようか、対象者の世代をいくつにするかなど、珍しく迷いも生じました。
風浪宮の資料を読み込むうちに、高良山との深い関わりが「高良山玉垂宮神秘書」に垣間見えたので、一念発起して、神秘書の方を通読。抜粋して訳した冊子を書いてしまいました。
これをブログの読者の方にも頒かちあう方がいいのではと思ったのですが、どのレベルまで注釈を入れるか、など納得するラインを見つけかねています。
それと並行して、神秘書の内容を少しずつブログにUPして、ミサキカラスから八咫烏の賀茂神社と、話がどんどん逸れて行ったのが、現在ですね(笑)
そんな最中に、ストップしていた風浪宮へ話を伺う事になってしまったのですから、やはりこれも神計らいということなのでしょう。
高良山の祭神が磯良から物部、そして住吉と、長い年月をかけて変遷していくのと同様の影響を風浪宮も受けていたことが確信できました。
住吉が伝えたかったのは、神功皇后の子供の父は自分だ、という問題に尽きます。
永遠の謎なので、私は触れることはしないつもりですが、やはり講演会の時などには質問があります。
昔って、妻問いの時代だから、固定した夫という道徳観を持ち込むと、変な風になります。江戸時代の封建制度も武士の世界の価値観であって、古代には存在しない考え方です。今なお私たちはそれにどっぷりと洗脳されているので、それであれこれと話をする方には、現代人の思考で判断しては変だよ、って思います。
兄弟が別の家の姉妹と複数で結婚するのも当たり前の時代なんですね。もちろん歌垣もあったので、民族を越えて愛し合えた。それが渡来人だらけの地で日本人という一つの民族という意識を造り上げたのかも、とまで思っています。
さて、安曇の御縁はまだまだ続き、志賀島でもう一度お話をすることが決まりました。
10月31日です。
志賀島公民館の文化祭の歴史講座で、志賀島の地名と伝承に関する話をします。
詳細はまた別にUPしますね。
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裏紙とはいえ、紙が貴重な時代、まだ紙背の方は読んでませんが、ちょっと目を通しておこうかなという気になりました^^
磯良は首を長~~くして待っていてください (^_^;)
本日「風浪宮」へ参拝して来ました、他には田油津姫の章を10社ほど
残り36社となりました
私は頭が悪いのでw到着してガイドブックをパラパラ読んでから参拝して写真を撮って
帰ってブログでまとめて「そうだったのか」と気付くのですw
後年改めてゆっくり参拝する予定です
風浪宮と高良大社には不思議な位置関係があって…
「地図でつなぐ聖地の旅 筑後国一宮「高良大社」その15」にまとめていますけど、もう、本当に暇でしょうがない…という時に、画像だけ、ちらっと御覧くださいね!
英彦山と高良山は神秘書によると敵対していたそうです。
これで何か読み取れますか?
例えば封じていたとか、引いていたとか。
風浪宮の本殿の裏に小学校がありますが、こちらには内宮があったそうです。
そここそ、本質的な聖地だったようです。それが、太宰府の本殿とつながる。
また、志賀海神社の参道を延長すると、風浪宮につながる。
そんなお話を伺いました。
時間があったら、確認していただけますか?
これは私が勝手に思っているだけなのですが、英彦山の三つの峰に祀られていたのは、元々宗像三女神だったのではないかと。英彦山北岳と宗像大社をつなぐラインを調べて、そう思いました。中岳に祀られていた神様が北岳に追われて、二人とも宗像大社に降りてきた。南岳に祀られていた神様も高良大社の方向に降りてきたのでは…
代わりに中岳に祀られたのが天之忍穂耳命ということだったのではと思います。北岳と南岳には小さな祠が残るだけです。
西日本を代表する霊山である英彦山の争奪戦があったのでは?と思いました。スサノオとアマテラスの「誓約(ウケイ)」の時ということになると思います。
この時から高良山は英彦山と敵対するようになったんじゃないかなぁ…という、私の想像にすぎないのですが…
風浪宮の裏に本当の内宮があったというのはすごい話ですねぇ!ここだと英彦山からのラインから外れてしまうかもしれませんが。太宰府の本殿というのは、どこなんですか?
志賀海神社の参道を延長すると、至ったのは脊振山でした!志賀海神社と風浪宮をつないだラインとは4°程度のずれがあります。これは脊振山とのつながりを考えるほうが妥当だと思います。そのくらいピッタリです。私にとっては新発見でした。水城もそうでしたね…
でも、風浪宮と脊振山の関係があれば「つながる」ことになるのですが、それはまだ見つかりません。今後の課題です。
ごめんなさい、今のところはこんな程度です。
また何か見つかったら御報告しますね!!
風浪宮の元々は、磯良丸神社横のドルメンではないかと思っていたのですが、どうなんでしょうか?
面白いと思います。
高良山から見て、英彦山は異類ということと、香春岳争いがあったことが原因のようです。(神秘書では)渡来人だらけの時代の話だと思いますが、印度人、中国人などなど、入っているようなので、どうなるのか、楽しみでもあります。
英彦山の絵巻には鼻の長いユダヤ人の顔も描かれていますし。
で、風浪宮のドルメンは西山正氏の鑑定で、2000年前のもので、日本最大のドルメンだそそうです。石の下からは合わせ甕棺が出ていますが、それ以上の調査はなされていません。
磯良より200年ほど前で、骨卜などが出土しているので、弥生時代にはクニの形態があった可能性が高いです。
そこの港湾使用権を神功皇后が磯良に褒賞として与えたのではないかと推測しています。
大宰府の本殿は、現在の本殿かと思います。その下には道真の墓があるので、ラインが通るとすると、時代がその時代以降になります。
風浪宮で5万分の1の地図を貼り合わせたものを拝見しましたが、ネットとの誤差はあるのかと気に成りまして。
太宰府天満宮は宇佐神宮からの真西のラインも設定してるんですよ。
逆に、アテラ(宮地岳)の真東が御許山の大元神社になるし、関係ありそうです。
太宰府天満宮の真南に「永世神社」があります。ここも lunaさんに教えていただいた神社です。ここから240°で、吉野ヶ里遺跡のどこかに至ります。
そういえば、吉野ヶ里遺跡の真南が風浪宮でした…北墳丘墓から 179.90°で、風浪宮の今の本殿です。
と、無理やりラインをつなぐことはできるのですが…永世神社は遷座してるんでしたね…やっぱ難しいかな?でも、風浪宮と吉野ヶ里遺跡の南北関係は注目していいと思います。
志賀海神社の参道を真っ直ぐ登ると、拝殿の手前で右に曲がらないといけないですね。せっかく脊振山から真っ直ぐなのに…こういうことは多いんでしょうか?参道のラインは拝殿の左側の建物に到着するようですねぇ…
参道は浜から直接上がっていく小路もあります。たしか、浜辺にあったのが、津波に遭ったので、現在地に移したとも聞いています。
一般に、参道は正面を避けて少し角度を付けるとも聞きます。写真を撮る時、正面が微妙にはずれる宮は確かにあるんです。
天満は天神(道真)と八幡(応神)を合わせたものと、真鍋が言っています。宇佐を意識した可能性はありますね。それにしても、測量が凄い。
風浪宮と吉野ヶ里の話を結ぶ道については、阿曇宮司の口からも何度も出てきました。その延長上に那珂があって、古代の重要路だったようです。那珂はまた太宰府の後ろ盾のような感じです。
吉野ヶ里の大規模な発掘が始まる前だったと思いますが、那珂というか大橋に抜ける道をバイクで走ったことがありました。いい道でした…そのまま北へ行くと筥崎宮までつながるのかなぁ…元々、たくさんの道や鉄道が筥崎宮のあたりに集まってると思ってラインの探索を始めたのでした。
二つの現人神社をつなぐラインがあるのですが、これを書くのはもう少し後になりそうです…
永世神社はやはり遷座してるのが確認できました。国土地理院の空中写真を見ると、1961年の写真には何にもなくて、1975年の写真には建ったばかりの社殿がありました。便利な時代になったものです。
チェリーさんの探索道は「大分宮へと続く」という江戸(?)のメッセージかも^^
しかも 100.02°でした。100°ぴったりに何の意味があるのかと思われるかもしれませんが、「尾張氏とヤマトタケル」のシリーズで追っかけていたのは主にこの100°のラインだったのです。長いお話ですので、いつか本当にお暇な時にチラッと見てくだされば…(「地図でつなぐ聖地の旅」の「尾張氏」のカテゴリで入れます。)
永世神社の遷座前の姿を1961年の空中写真で見ることができました。
本当に鳥栖JCTの下になってしまっています。まあ、位置的には「許斐山」の真南ということになるようですけど…
許斐山と永世神社…方向音痴にはびっくりすることばかりです^^
筥崎宮で100°を測量して太祖神社の位置を定めた。太祖神社で改めて真北を割り出して100°を測量して大分八幡宮の位置を定めた。ということになるようです。伝承と逆になるのが興味深いところです。
筥崎宮の参道はそのまま社殿を通過して三郡山に至るのでした。この山地の最高峰です。何で今まで気がつかなかったんだろう…
脊振山を起点とする志賀海神社の参道と対をなすものです。
一度まとめてUPしますね!
まあ、私は私なりにゆっくり進めることといたします。