2015年 10月 10日
宮野神社(3)三階松紋は語る「橘広庭宮は宮野にあり」
宮野神社(3)
朝倉市宮野
三階松紋は語る「橘広庭宮は宮野にあり」
前回、朝倉市の宮地嶽神社と宮地嶽古墳を紹介しました。
この神社と古墳を抱く宮地嶽(120m)の南に開けた小平野があり「宮野」と言います。
その一角に宮野神社と別所神社があり、過去記事で紹介しました。
宮野神社(1)斉明天皇が藤原鎌足に命じて造らせた宮
http://lunabura.exblog.jp/22100319/
別所神社(1)中大兄皇子は麻氐良社から女神を分けて祀った
http://lunabura.exblog.jp/22119354/
別所神社(2)「皇居の辺」なる清浄の地
http://lunabura.exblog.jp/22126791/
宮野神社では鎌足に大己貴神を祀らせて、勝利祈願をしています。
これは神功皇后の先例に見倣ったものと思われます。
神功皇后は大己貴神社(上巻42)と大神神社(下巻68)でそれぞれ大己貴神を祀って神助を得ています。
ところが、別所神社の祭祀の主体者は中大兄皇子となり、祈願内容は病気平癒です。
切迫した状況が伺えます。
別所神社が「皇居の辺」にあったという言葉から、橘広庭宮はすぐ近くにあったことが分かりました。
中大兄皇子は、自分自身で祈願するために皇居から近いところを選んだということです。
そして、この別所神社を含む900m×900mの都を想定して、以下の図を描きました。

この記事を書いた段階では、結論を持っていなかったのですが、風水上から、宮地嶽神社を北に抱くのを最良として、「宮野説」を結論づけました。
これを昨年(2014年)の久留米大学生涯講座で発表したのですが、それに関しては全く反応がありませんでした (^_^;)
ま、タイトルは「古代筑紫を貫流した ありなれ川」で、眞鍋大覺の伝承を紹介したものでしたし…。一時間半の中、最後の30分で、宮野説を話したので、サラリと成りすぎたかな?
この「橘広庭宮」の所在地に関しては福岡でもあまり興味を抱かれていないのも、肌で感じます。歴史が奈良や京都の事だと刷りこまれている洗脳がなかなか解けないのも一因だと思います。
でも、神功皇后と同じく、斉明天皇と中大兄皇子の足跡を伝える宮があるのも事実です。ただ、神功皇后は130社ほど採取したのに対し、斉明天皇親子は十数社です。
それでも、『日本書紀』を裏付け、そして補う歴史が展開したのを、神社縁起で推し量る事が出来ます。
以下は過去記事に田手神社を追加したものです。
「朝倉橘広庭宮を探せ」
http://lunabura.exblog.jp/22149931/
斉明天皇七年(661)
5月9日 朝倉に遷幸。
5月10日 斉明帝、宮地嶽神社(朝倉市)に参拝。(神功皇后・高麿・助麿)
5月11日 斉明帝、中大兄皇子と共に福成神社(朝倉市)に戦勝祈願。(三女神)
(源太老人の墓・宮殿橋・桂の池)(下巻53)
○月○日 斉明帝、藤原鎌足に命じて宮野神社を創建する。(大己貴)
○月○日 中大兄皇子 天皇の病気平癒のために別所神社を創建する。(イザナミ)
○月○日 朝闇神社で祭祀か?(高皇産霊)
○月○日 田手神社で祭祀。(向津媛)
7月24日 崩御。68歳。
8月1日 中大兄皇子は遺骸を橘広庭宮から木の丸殿に移して12日間服喪。
(御陵山。恵蘇八幡宮)
赤字は祟り神として位置づけ、斉明天皇の病気後に祀ったと仮定しました。
さて、広庭宮の場所の話に戻りましょう。
るなは「宮野説」です。「宮野」という地名もまた宮があったことを示唆しています。
朝闇神社説を確認するために現地に行くと、高木神が祀られていたので、大変驚きました。この神は祟りです。新羅戦を前にして仲哀天皇にも祟った怖ろしい神です。
これを北に奉じることは有り得ないと思いました。また、発掘調査でも寺院あとしか見つからないようです。
これに対して、新羅と戦って勝利を得た女神が宮地嶽神社に祀られているのです。それが神功皇后。
その神威を受けたイヤシロチこそ風水上、ふさわしい土地です。それが宮野です。
そう気付いてから、現地を確認して、その正中線に立ってみたい。そう思ったのですが、思いを遂げる日が、宮地嶽神社の三か月後に訪れました。
「宮野神社に三階松があるんですよ」
と、驚きの情報をくるま座さんが言ったのです。
宮野神社は上記のように、一度参拝して、ブログでも紹介したのですが、「三階松」には気付きませんでした。
これこそ、福津の宮地嶽神社の神紋であり、九州王朝の紋。
宮野神社には筑紫舞の絵馬もあるらしいです。天子の森にはそのオブジェがあります。(ルソン足をしている)
それまで、朝倉と福津との繋がりが分かりませんでした。でも、「三階松」があれば、すべては繋がります。



宮野神社から宮地嶽を撮りました。いつも、神功皇后を仰ぎ見ることになります。

そして、正面に見える所まで移動しました。
ここに橘広庭宮が建っていると考えると、ゆったりとした平野がひろがって、神名備山を抱く、ふさわしい立地条件です。
この土地を提供したのは、前記事では鎌足の一族かと思いましたが、今では安曇族だろうと思っています。
その証しが三階松紋ですが、それだけでは弱いなと思って、地元の歴史マップを見ていたら、近くに「志賀様の大楠」という巨樹が描かれていました。
これは斉明天皇が志賀大神を祀った跡だそうです。
志賀大神とはもちろん綿津見三神のことです。
安曇族が桂川を遡って船を着ける舟着き場に祀ったのでしょう。
これで、安曇族がここまで上がって来た裏付けが取れました。
ちなみに、安座上姓は、朝倉で天皇から授かった安曇族だそうです。
上座の安曇族という意味でしょうか。(上座とは朝倉の一部)
時代も、どの天皇かも、聞いていませんが、この「宮野」を提供して建造に関わった功績を称えられたのではないかと、ひそかに思っています。
橘広庭宮推定地
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裏の、中宮野神社内古墳ばかり見て、宮野神社は形ばかりの撮影しかしていませんでした。
当時は、三階松にも注目していなかったし・・・
周囲のいくつかの神社の写真を見てみましたが、新たな発見はありませんでした。
細かな所も含め、古墳とともに探索したいと思います。
一生見学することはなかったと思われるものばかりでした。
宮地嶽神社(朝倉)も、自分では行けなかったと思います。
いろんな発見がありました。
とりあえず、全行程を投稿し終えました♪
何カ月掛かったかな。
これからもよろしくお願いします^^
ご先祖調べというか
考古学の赤司善彦先生(たぶん遠~い親戚)から
宮地岳?宮地嶽古墳?を検索して、またまたるなさんのブログに着きました。
地元歴史と言ったら、やっぱりるなさんなんですねー(^ ^)
「朝倉橘広庭宮」って福岡ではあまり興味持たれてないんですね…。
私はこの先生の講座を昔聞いたときに知り、ちょっと興味持ってます。
私の場合はご先祖調べから入っているので、
奈良や京都より断然九州の歴史のが興味津々です。
またたどり着くことがあると思います。笑
というか本も読みたいです。
(止誉比咩調べてるなら必読?)
これからもお邪魔致します♪









