2015年 11月 04日
斉明天皇行宮の磐瀬宮あと 中間市編
斉明天皇行宮の磐瀬宮あと
中間市編
斉明天皇の磐瀬宮は福岡の何処だろうか。
数年前から、ミキさんの情報で中間市にその伝承があると聞いていて、
ようやく『中間市史』で確認できた。
地名が分かるようにと道路地図をコピーしてみると、なんと
「斉明天皇行宮の御館山」と赤字で記してあった。\(◎o◎)/!
その場所はJR中間駅の西。たぶんプラットホームから見えているはず。
鉄道工事のために山の側面を削り取られたという。
以下、『中間市史』中間地名考より
御館
斉明天皇行幸の地と伝える御館山は、中間と岩瀬の両区に跨っており、そこに接して行幸ノ尾(みこのお)という名の字がある。
この御館の地は岩瀬と近接し、以前は岩瀬村に属し、斉明天皇行幸の史跡として伝承が残されている。
明治24年筑豊鉄道の布設工事によって、山の側面を削りとられ、その崖下に中間駅が設置され今は周辺200メートルほどの小山である。
この御館山頂には約40平方メートルの平地があり、そこに斉明天皇を祭る御館社があったが、長い間の風雪に取りこわれたままになり、今は石祠のみが岩瀬の正覚寺観音堂の境内に祭られてある。
古くはここに大歳社、猿田彦を祭る石祠もあったが、鉄道布設のときに取除かれてしまった。そのときの工事中に官服を着た埴輪。また古く山麓から石棺とともに石剣が発掘されている。
この御館山のことを通称、月見山と呼び、その麓から岩瀬に通ずる大道があった。今に行幸縄手と称している。
念のため、中間市のHPで岩瀬宮の記述がないか閲覧したが、全く記述はなかった。
歴史民俗資料館にかつて行った時にも展示は無かったと思う。
まさか、地元で忘れ去られているのだろうか。
忘れられていなかったら、鉄道をほんの数メートル移動して
削らずに済んだはずだ。
ここは遠賀川流域の氾濫原の中にある丘だ。
対岸には仲哀天皇と神功皇后が停泊した埴生神社がある。
百済応援の軍勢を出した所と想定している地域で、
装飾古墳には馬の背に立って弩を射る武人が描かれていた所だ。
古代の交通の要衝で、強大な豪族がいたと思われる。
ここには斉明天皇だけでなく、中大兄皇子の伝承も伝わっている。
資料が見つかったら続きを書くことにしよう。
中間市とはどこか。
高倉健の出身地といえばお分かりだろうか。

ー遺跡の破壊は許さんー
御館山か?
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参道のドまん前に公共施設が建ってるのに違和感デス
(´・ω・`)
"(-""-)"
御館山ですが、544ページに「国鉄中間駅の西出口の向かい側の小山と伝えている」とあるので、その場所でいいと思います。ただ、史跡として整備されているわけではないので周辺に駐車場がなくて; 未だに登る事は出来ていません。。。 中間駅にも月極駐車場しかないみたいなんですよ。
ちょっと話はずれますが、四環鈴の出た八所神社ですが、西暦700年前後の古墳と推定される、と、これは別の本ですが書いてありました。しかも、宮地嶽古墳と年代ならびに工法が一致しているとありました。まだ自分自身で調べていないので何とも言えないのですけれどもね(^_^;)
駐車場がないというのは重要情報ですね(^^;
行ってもグルグルするのはやっかいですから。
御館山の読み方は「おやかたやま」ですか?「おたてやま」ですか?
八所神社の古墳が700年ごろとすると、福津市の宮地嶽古墳が7世紀~前半なので、別の宮地嶽古墳かもしれませんね。
でも工法が一致となると、他には例が二つぐらいしかないので、大発見だと思います。宮地嶽古墳が複数あるので、要注意かな^^
御館山の読み方、私も随分と探しました。中間市史の中に「御館山遺跡」を「みたてやまいせき」と呼んでいるところがあったので、「みたてやま」と呼ぶのが正しいのだと思います。
八所神社の古墳ですが、その本には、竪穴式と書いてありました。こちらのブログで見る宮地嶽古墳は竪穴式ではなかったと思うので、そこから調べなくちゃと思いながらどれだけの月日が経ったか・・・
水巻も古墳と遺跡だらけで、私もワンクリックで情報にたどり着けるMapを作りたいと思いながら(gooのような)コンピューターに詳しくなく、あっちもこっちも中途半端のままほったらかしになっています;;
そうそう、明日は風邪のためお休みしますゞ 鼻水垂らしながらじゃ、相手の方が可哀想ですから(笑)
思いつかなかった。きれいな言葉ですね (^^♪
マップ作りは、アナログから始めたら楽ですよ。
神社や遺跡ごとにコピペしてリーフにして、あとで並べるんです。
パッチワークでパターンを造って、あとで並べ替えるのと同じ。
リーフがたまっていくのが楽しい♪
まずは町誌の神社を一枚ずつに張り付けて、撮った写真を張るだけでもいいと思います^^








