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ひもろぎ逍遥

馬上の武人7 物部至至連


馬上の武人7
WAKIMIKO
物部至至連は襲われた
 

伴跛国(はへのくに)とは任那北部にあったという。
百済に隣接していたのだろうか。
『日本書紀』を読んでいるのに、韓国の古代地図がないと読解が困難だ。

神功皇后の摂政時代も同じだった。あの時はあきらめたが、
今回は「馬上の武人」が何処で戦ったのかを知るために
少しずつ読み進めている。


百済、新羅、安羅、伴跛国。
日本の朝廷に滞在していた使者の国の名だ。

朝廷はこれらの使者を並べて、
「百済に任那の己汶(こもん)と滞沙(たさ)を与える」と宣言した。

伴跛(はへ)国がただちに撤回を求めたが、日本は応じなかった。

これが前回の流れだ。


伴跛国と物部連が今回の課題だ。

翌年、514年3月に伴跛国は日本に備えて城を作った。
子呑(しとん)帯沙(たさ)の地だ。ノロシ台と倉庫を置いた。
さらに二か所の城を作った。
これらの場所が現代の何処かは分かっていない。

そして、伴跛国はなんと、新羅を襲ったのだった。


明くる515年、百済の使者・文貴将軍らは帰国することになった。
日本は物部連(もののべのむらじ)に送らせた。

この「物部連」の名前が書かれていないが、
「『百済本記』には物部至至連(ちちのむらじ)と書いてある」
という注記があった。

何故名前が書かれていないのか。
それは、彼がヘマをしたからに違いない。物部至至連の名を使おう。



物部至至連らは巨済島に着いて、伴跛国の暴虐ぶりを噂に聞くと、
成敗しようと、舟師500を率いて帯沙江に入港した。

文貴将軍は新羅から去った。

(文貴将軍はいつの間に新羅に行ったのか書かれず、唐突にこの文が出てくる。
注によると、『日本書紀』はこの辺りは『百済本記』を参考に書いているらしく、
文脈が所どころ、おかしくなる)



至至連が巨済島に着いたのが2月だった。
4月になって帯沙江に着いたが、その六日目に突如、伴跛国が襲ってきた。

衣服も持ち物も奪われて、帷幕(きぬまく)も焼かれ、
至至連らはほうほうの体(てい)で、汶慕羅島(もんもら)に逃げた。



翌年、516年5月。
百済は前部木刕不麻甲背(ぜんぽうもくらふまこうはい)を派遣して
物部至至連らを己汶(こもん)に迎え、百済まで連れて来た。
百済の群臣らが衣類や武器を準備して待っていた。

9月に百済は州利即次将軍(つりそし将軍)に物部至至連を送り届けさせ、
己汶が日本から与えられたことへの謝意を伝えた。

この「物部至至連」が、
のちに出てくる物部伊勢連父根(ちちね)と同一人物らしい。

不名誉な事件の部分では名が伏せられる。
『日本書紀』によく出てくる手法だ。


この父根は調べると、伊勢の物部神社に祀られているようだった。





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by lunabura | 2016-02-08 20:34 | 「脇巫女」 | Comments(0)

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